Google Mapで訪ねる主の路程(13)-平壌での活動と景昌里(キョンチャンニ)集会所〔前編〕


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第13回前編-平壌での活動と景昌里(キョンチャンニ)集会所(1946年6月~)

文先生が38度線を超えて北に入り1946年6月から伝道活動された「景昌里(キョンチャンニ)」。「景昌里」の集落跡に建てられたのは、万寿台(マンスデ)国会議事堂です。万寿台国会議事堂は、45年後の1991年に北の幹部を前に文先生が「主体思想では南北統一できない」と説教した場所です。これは驚きです。しかし平壌ではこれと同様のことがいくつもあります。
そしてキリスト教がさかんな平壌のようすがわかる写真を探していましたが、景昌里のすぐ南にあるミッション系学校の崇実(ソンシル)専門学校の街頭伝道風景1930年代中頃の写真が見つかりました。この場所は景昌里の集落からわずか南500mほどの位置と推定されます。最後尾に紹介します。(2022年6月筆者記)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第13回は、平壌での活動と景昌里(キョンチャンニ)集会所(1946年6月~48年2月)です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

1890年代景昌里から大同門を眺めた景色 1940年代の平壌市街
(左)1890年代景昌里の高台から大同門を眺めた景色と推測できる写真
/1940年代の平壌市街 景昌里は前方の左手方向(右)

現在の普通門- by mar21 1890年代の普通門
現在の普通門(西門)- by mar21/景昌里にほど近い普通門1890年代

平壌の景昌里(キョンチャンニ)集会所 跡(現・平壌直轄市万寿洞 万寿台議事堂の敷地)


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平壌の景昌里(キョンチャンニ)での集会所の位置は
なんと現在の万寿台議事堂の敷地だった!

万寿台議事堂- by mar21

1946年6月頃から、文先生が平壌で伝道活動をしていた「景昌里(キョンチャンニ)」は、自叙伝にも「生涯路程」にも登場します。景昌里(キョンチャンニ)はいったい平壌のどのあたりだったのか。今はどうなっているのかを日本統治時代の地図や、各種資料、自叙伝での証言、文先生が逮捕される大同保安署の位置を元にしながら、調べていきました。

その結果、景昌里(キョンチャンニ)の集会所に使っていた家の位置が、現在の万寿台(マンスデ)議事堂の敷地であるとの結論に至りました。自叙伝には、羅最燮(ナチェソプ)氏の家で伝道活動を始めた話が出ています。また、その家が手狭になったため、鄭明善氏(章台山見〔チャデヒョン〕教会の執事だった金ジョンファ氏の夫)の家を集会の場所に移したと、当時からの信徒であった金仁珠女史が話した記録があります。どちらも景昌里であり、至近距離であったことが想像でき、現在の広い万寿台議事堂の敷地内にあると考えます。

実は、万寿台議事堂と言えば、自叙伝の後半部272ページに登場します。それは1991年12月、金日成主席に会う前、北朝鮮の党幹部・要人を前に、文先生が「銃剣では南北の統一はできない」と2時間にわたって大演説をぶった場所です。1946年に景昌里の集会所で平壌の食口の前で熱く語っていたときから、実に45年後、再び同じ場所に立たれて共産主義者を相手に“説教”をされていたのです。これには、びっくりでした。

なお、ここでは、結論を先に出しましたが、その推論の内容については、第13回後編の「文先生が平壌で伝道活動をしていた景昌里集会所の場所が万寿台議事堂の敷地と考えた根拠」を参照してください。

1914年の平壌府地図(クリックで拡大表示)
▲1914年『平壌府全図』-景昌里はうす黄色で塗り分けた地域
南北に長く東は丘の上の城壁を境とし西は南北に走る道までの場所、
北東に萬壽臺(万寿台)を控え西に普通門がある(クリックで拡大表示)

1919年の平壌府地図(クリックで拡大表示)
▲1919年『平壌府地図』-前の地図を元に景昌里をピンクで塗りつぶした
丘の上を南北に城壁がめぐらされているのがわかるほか、済衆院(医学所)や
耶蘇神学堂、女子聖経学堂などのキリスト教施設が確認できる(クリックで拡大表示)

1939年の平壌地図でみた景昌里(クリックで拡大表示)
▲1939年「平壌西部」「平壌東部」地図でみた景昌里
陸軍陸地測量部・朝鮮総督府発行 (クリックで拡大表示)

1946年米陸軍発行の平壌市地図(クリックで拡大表示)
▲1946年米陸軍発行の平壌市地図(クリックで拡大表示)
-北と東からの道路が拡幅され、この時代には景昌里と呼んでいた地域が南北に分かれる。
北側には小さな集落が残っているほか、南側はミッション系の崇義(スンギ/そうぎ)女学校、
神学校(theological seminary)、キリスト教病院、などが集まる文教地区である。
さらに西側には米国宣教師邸宅、聖書学校、ミッション系の崇実(スンシル/すうじつ)
女学校など確認できる。赤丸印は、文先生が集会所として使われていたと
思われる景昌里の地域。(この辺りというだけで特定ではありません)

景昌里にほど近い崇実専門学校の伝道風景
崇実(スンシル)専門学校の街頭伝道風景(クリックで拡大表示)
背広姿の男性たちが街頭伝道をしている風景。後ろにある建物には、漢字とハングルで「崇実(スンシル)専門学校伝道館」と書かれている。この場所は景昌里の集落からわずか南500mほどの位置と推定される。崇実専門学校は、崇実中学校、崇義女学校とともにキリスト教教育をしていたミッション系学校であり『三崇』と呼ばれていた。
Street evangelization in Pyongyang, c1930s,vintage postcard,「1930年代のピョンヤンでの街頭伝道-ビンテージ絵はがきより」(クリックで拡大表示)
up!

WikiMapiaで見た現在のピョンヤン市街
▲WikiMapiaで旧・景昌里に該当する地域を見た現在のピョンヤン市街
万寿台議事堂を始め、朝鮮革命博物館、万寿台芸術劇場、ロシア大使館などの主要施設が建ち並ぶ
1946年地図で赤い○印をつけた場所は、見比べると万寿台議事堂の敷地内にあることがわかる。


『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.97~P.99より引用)

一九四六年六月六日、平壌に到着しました。もともと平壌は「東洋のエルサレム」と呼ばれたように、キリスト教が深く根を下ろしている所です。日本の占領期には、神社参拝は言うに及ばず、皇居のある東方に向かって敬礼させる東方遥拝など、ありとあらゆる弾圧が縦横に加えられました。私は平壌の西門に近い景昌里(キョンチャンニ)の羅最燮(ナチェソプ)氏の家で伝道生活を始めました。その人は南にいた時から知っていた教会の執事です。

☆             ☆

二十六歳の若々しい青年がローマ人への手紙やヨハネの黙示録を教えるのですが、その話が今まで聞いたことのない内容なのか、志のある者が一人、二人と集まり始めました。毎日のように来ては、喋ることもなく、ただ話だけを聞いていった器量の良い青年である金元弼(キムウォンピル)は、そうやって私の一番目の弟子になりました。私は、平壌師範学校を卒業し教鞭を執っていた彼と二人で、交代でご飯を炊いて食べ、師弟の絆を深めました。

私は一度『聖書』の講義を始めると、信徒たちがやることがあると言って先に席を立たない限りは休みませんでした。精いっぱいの情熱を注いで教えたので、体中から汗が滝のように流れました。みんなに分からないように、外に出て服を脱いで絞ると、服から水がぽたぽたと落ちます。暑い夏だけではありません。雪の降る厳寒の季節でもそうでした。そうやって全身全霊を込めて教えました。

礼拝を捧げる時は必ずきれいな白い服を着ました。讃美歌を数十回繰り返して歌い、情熱的な礼拝を捧げました。参会者が感動にあふれて涙を流すので、世間は私たちの教会を指して「泣く教会」とも呼んだのです。礼拝が終わると、一人一人が受けた恵みを証しします。証しをしている間、参会者は皆、恵みによって体が天に舞い上がるような体験をしました。

☆             ☆

このような聖霊の体験が知られてから、教会の門を閉めることができないほど信者の数が増えました。池承道(チスンド)ハルモニ (お婆さん) や玉世賢(オクセヒョン)ハルモニは、夢の中で「若い先生が南から上がってきて、万寿台(マンスデ)を渡ったところにいる。行って会いなさい」という言葉を受けて、訪ねてきました。誰かが伝道したとか導いたとかではなくて、天が教えた住所を聞いて、路地を歩き回って探し当て、「夢でお会いした方がまさに先生です」と言って喜んだのです。神学を勉強した牧師たちも私を訪ねてきました。私は彼らの顔だけ見ても、何が気がかりで訪ねてきたかが分かりました。何も聞かずに彼らの疑問に答えを示してあげると、喜びながら、びっくりして感激に震えるばかりでした。


『真の御父母様の生涯路程2』
第二節「韓国解放とキリスト教を中心とした摂理の出発」より引用

<キリスト教信仰の中心地 平壌>

平壌は、「東洋のエルサレム」と言われるほどキリスト教徒が集中した所です。それゆえに、平壌に行って、この道を出発したのです。

当時、平壌では解放を迎えて、新しく教会を再建しながら、歴史的な使命を果たすために新たに出発した時でした。このような環境にある時、先生が平壌に行って新しい原理運動を展開したのです。当時、キリスト教界では、この民族の前に訪れた解放の喜びとともに、日帝時代に圧政を受けながら悲しい信仰生活をしてきたすべての恨を取り除いて、新しい望みと希望に満ちあふれ、教会の再建と信仰の新しい革新運動が起こっていました。

そのような環境の中で先生が伝道をしていると、既成教会の中心になる信徒、あるいは特別な恩恵を受けた人たちが、所属していた教会に行かずに先生の前に集まり出しました。そのため、当時平壌で問題視され始めました。その時は、先生は西門に近い景昌里(キョンチャンニ)で伝道をしながら、統一教会の出発の基盤を立てていた時でした。

<景昌里(キョンチャンニ)集会所>

私が平壌に行ったのが、二十六歳の時でした。とても若い青年でした。聖書を教えるのですが、ローマ書だとか黙示録を解釈するので、みな目がひっくり返ります。世上万事(世の中で起こるすべてのこと)に関して現在までその人々が生きていたならば、「いやー、文総裁! 千年史をみな知っていたんですね。どのように知ったので、みな当たったのだろうか」と、そう言うことでしょう。

賢い人を引き抜くのです。引き抜けというのです。うまくいかなければ、直接会って説得するのです。このようにして青年会長たち、言葉の巧みな人々、熱心な執事たち、賢い人々、全部選び抜くのです。一つの教会から四、五人だけ引き抜けば、その教会が崩壊するのです。

平壌で章臺山見(チャンデヒョン)という大きい教会がありました。昔、吉善宙牧師がそこで復興会をしたり、祈祷をして恩恵を受けた所です。その教会には千から千五百名近く集まるのですが、そこから賢い人を十五名引き抜くと、崩壊したのです。ですから、長老たちが「大変なことになった」と大騒ぎしたのです。そのようなことをして、平壌で私は悪口を言われたのです。

「ここに天が引き抜くほどの人がどれくらいいますか。義人が五名だけいてもソドムとゴモラを滅ぼさないと言われましたが、その義人になれる人がどれくらいいますか。いなければ、何ヵ月か待ってください、私がつくり出します」。ですから、どんなに忙しいでしょうか。


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