Google Mapで訪ねる主の路程(13)-平壌での活動と景昌里(キョンチャンニ)集会所〔後編〕


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第13回後編-平壌での活動と景昌里(キョンチャンニ)集会所(1946年6月~)


文先生が平壌で伝道活動をしていた景昌里(キョンチャンニ)
集会所の場所が万寿台(マンスデ)議事堂の敷地と考えた根拠

1914年平壌府全図より

1914年の平壌府地図
1914年『平壌府全図』-景昌里はうす黄色で塗り分けた地域

(1)景昌里(キョンチャンニ)は、南北方向に走る松永通りと小高い丘の間にはさまれる形で南北に細長い地域です。西側は新陽里、東側は上需里にはさまれています。北は萬壽薹〔万寿台〕(マンスデ=標高60m)のふもとにある高等普通学校の裏手から始まり、南は静海門(チョンヘムン)を過ぎて、南山町に接しています。

(2)平壌府の街は、平壌の東を流れる大同江と、西を流れる普通江の間にはさまれています。景昌里は、標高20~28m程度の小高い丘となっている丘陵地帯の西側にあり、西側の普通江と普通門のある側に開けています。つまり地形的には、東側の大同江と大同門のある側は反対側、向こう側になります。地理的・地勢的な感覚では、普通江と普通門が目の前に開けている感覚です。

1916年平壌府地図より

1919年の平壌府地図
1919年『平壌府地図』-景昌里をピンクで塗りつぶした(クリックで拡大表示)

(3)景昌里(キョンチャンニ)の中心集落は、医学所「済衆院」や、キリスト教礼拝堂と思われる「耶蘇神学堂」の北側、東西に横切る道の北側にあります。

(4)景昌里の東端の境となっている小高い丘がよくわかります。丘の東側は上需里、上水口里、下水口里と別の呼び方の町・集落になっています。地名から言って湧水が豊富だったことが想像できます。

(5)景昌里はある程度、普通門(西門)に近いですが、松永通りを境に、西にある普通門の所在地およびその周辺は、新陽里とよばれる場所になります。つまりその辺りは景昌里とは呼びません。

1939年「平壌西部」「平壌東部」地図より

1939年の平壌地図でみた景昌里(クリックで拡大表示)
▲1939年「平壌西部」「平壌東部」地図でみた景昌里
陸軍陸地測量部・朝鮮総督府発行 (クリックで拡大表示)

1946年ピョンヤン市地図より

1946年米陸軍発行の平壌市地図
1946年米陸軍発行の平壌市地図(クリックで拡大表示)
赤い○印は、いずれかの家が、文先生が集会所として使われていた場所と推理できるエリア

(6)南北に走る松永(ソンヨン)通りは、まっすぐになって拡幅され、東西に走る道もまっすぐ整備されます。その結果、景昌里地域が南北に分かれる形に。交差点はロータリー風になり、真ん中になんらかのモニュメントが置かれていたと想像されます。

(7)ロータリーの西北側は米国宣教師邸宅、Bible School(聖書学校)、西南側にミッション系の崇実(すうじつ)女学校などが描かれています。これらの場所はその前の地図では新陽里と呼ばれるところです。

(8)南北に分かれた景昌里に注目。ロータリーの北東角に[煙突]がある施設が見えます。窯業か、あるいはその他何か焼くことをなりわいとする施設かも。その[煙突]の北側に数軒ほどの家があり、小集落があります。
南側はミッション系の崇義(スンギ/そうぎ)女学校、Theological Seminary(神学校)、キリスト教病院、などが集まる文教地区です。

(9)東西の道を東側に行くと、小高い丘を登る形となり、やがて下ります。丘の東側は上需里にあたる町が広がっています。

自叙伝・生涯路程の記述より

「若い先生が南から上がってきて、万寿台(マンスデ)を渡ったところにいる」
「平壌の西門に近い羅最(ナチェソブ)氏の家」(西門=普通門のこと)
「西門に近い景昌里」

(10)平壌の郊外、北方向からやって来る場合、松永(ソンヨン)通りを通ると、万寿台を渡る(越えて下る)感覚になります。景昌里の地形からすると、より西側の方がそれに該当します。ちょうど下った場所は、同時に西門(=普通門)により近くなります。

大同保安署による拘留という事実から見て

(11)1946年当時、平壌市街の中心地に平壌警察署の後身である平壌保安署があり、平壌の北、町はずれに大同保安署がありました(くわしくは次回、第14回で紹介)。文先生はその大同保安署によって拘留されます。2つの署の管轄エリア境界がどこだったかは不明ですが、南北に長い景昌里の中でも、より南側では平壌保安署の管轄内となる可能性があり、そのため、より北側の大同保安署の管轄内に位置する必要があります。
そこで1946年の地図をもとに、両署の管轄境界が景昌里を横切る東西の新しくて広い道路ではなかったかと推測しました。

結 論

つまり、1946年当時、平壌周辺に古くから住み続けている人々の感覚でも、自然と「景昌里」の場所であると認識できる地域であり、北から来るときに「万寿台を渡る(越えて下る)」感覚の場所であり、「西門(=普通門)にも近い」場所で、北の町はずれにある大同保安署の管轄内に入る地域であると考えました。

上記の理由から、文先生が集会所として使っていた羅氏の家や鄭氏の家は、1946年ピョンヤン市地図での(8)であげた「数軒ほどある家」のいずれかであると推測する結論に至りました。

そして、その場所は、現在の万寿台(マンスデ)議事堂が建っているエリアで、議事場の真ん中から後背側にかけての辺りです。ちなみに、万寿台議事堂がある現在の地名は万寿洞であり、旧・景昌里は、現在の地名では北から南に向かって、万寿洞・西門洞・中城洞という地名になっています。


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