Google Mapで訪ねる主の路程(14)-大同保安署での拘留と拷問


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第14回-大同保安署での拘留と拷問(1946年8月11日~11月21日)

(大同保安署)

文先生が1946年8月11日から11月21日まで逮捕され激しい拷問を受けた「大同保安署」。箕林里の大同保安署がなくなり、目の前にロータリー交差点が整備され、そこに建てられたのは平壌凱旋門です。ここも景昌里と同様です。45年後の1991年12月2日、牡丹峰迎賓館で明け方北朝鮮を伝授する式を終えた後、文先生ご夫妻ご一行は市内観光で平壌凱旋門を視察します。朴普熙先生著『文鮮明師の電撃的な北朝鮮訪問』には、平壌凱旋門を訪れた一行の写真(このページの最後尾)が掲載されています。(2022年6月筆者記)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第14回は、大同保安署での拘留と拷問(1946年8月11日~11月21日)です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

大同保安署での拷問を描いた絵画
大同保安署での拷問をイメージした絵画

牡丹峰から見下ろした戦前の箕林里 赤丸の辺りが大同警察署(後の保安署) 牡丹峰から見下ろした戦前の競技場
(左)牡丹峰から見下ろした日本統治時代の箕林里 赤丸付近が大同警察署(後の保安署)
/(右)牡丹峰から見下ろした日本統治時代の野球場 現在は金日成競技場が作られている
実は1945年、ソ連から当時帰国したばかりの金日成将軍が人々の前で演説した場所である

大同保安署 跡(現・平壌直轄市牡丹峰区域 凱旋門前広場)


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Google Earthで眺めた凱旋門と金日成スタジアム(クリックで拡大表示)
▲Google Earthで眺めた凱旋門と金日成競技場

大同保安署は平壌の有名な観光名所、凱旋門前広場にあった!

文鮮明先生が38度線を超え、平壌に入って伝道活動を続けられた2ヶ月後、「南から来たスパイ」の嫌疑で大同保安署に拘留され、瀕死に至る激しい拷問を受けました。その壮絶な拷問のゆえに、「大同(テドン/だいどう)保安署」の名は、文先生の生涯を少しでも知る者にとってはあまりにも有名ですが、北朝鮮内の場所であることから、これまでよくわかっていませんでした。その場所がどこであったかを調べるための材料は、やはり、戦前の日本統治時代の資料でした。
1946年8月は、解放後まだ1年しか経っておらず、ソビエト連邦軍政下のもとで、共産党が支配を踏み固めようとしていた段階です。それを考慮すれば、日本統治時代の施設や設備をそのままの目的で使用したと考えられます。警察署は保安署に、覆審法院(裁判所)は裁判所に、刑務所(監獄)はそのまま刑務所に、という具合です。
大同保安署は、”Taedong(Daido) Police Station”と1946年の米陸軍作成の地図にはっきり記載されています。その場所は、平壌の都心部からま北にあり、現在の観光名所でもある凱旋門前の広場です。1991年12月2日、文先生ご夫妻ご一行は市内観光で平壌凱旋門を視察しています。
戦前の日本統治時代、朝鮮総督府警察署名簿にも、当時の住所「平壌府箕林里(キリンリ)」として大同警察署が記載されています。大同警察署は、平壌中心部にあった平壌警察署と管轄を分け合っていたと考えられます。文先生が活動していた景昌里(キョンチャンニ)の集会所は、直線距離は大同警察署と平壌警察署とではあまり変わりませんが、大同警察署(大同保安署)の管轄エリアに入っていたと推測できます。

1939年の平壌地図に載っている大同警察署(クリックで拡大表示)
▲1939年の平壌地図に載っている大同警察署(クリックで拡大表示)
「平壌西部」「平壌東部」陸軍陸地測量部・朝鮮総督府発行

1946年米陸軍発行の平壌市地図
▲1946年米陸軍発行の平壌市の地図(クリックで拡大表示)
“Taedong (Daido) Police Station”と明記されている

平壌警察署や大同保安署の所在地が書かれている警察署名簿 平壌警察署
(左)平壌警察署や大同保安署の所在地が書かれている戦前の朝鮮総督府警察署名簿。
大同警察署の所在地は「平壌府箕林里(キリンリ)」。箕林里の地名は牡丹峰の上にあった
箕子陵(きしりょう)がその地名の由来/(右)こちらは街の中心部にあった平壌警察署の建物

平壌府周辺の警察署を描いた日本統治時代の「朝鮮警察配置図」
平安南道-平壌府周辺の警察署を描いた日本統治時代の「朝鮮警察配置図」

大同保安署跡に建てられた平壌凱旋門を訪れる文鮮明先生ご夫妻
平壌凱旋門を訪れた文鮮明先生ご夫妻ご一行
朴普熙先生著『文鮮明師の電撃的な北朝鮮訪問』に掲載されている平壌凱旋門を訪れた文鮮明先生ご夫妻ご一行の写真。文先生と一行が立っているのはまさに大同保安署跡地の真上。驚きのワンショットだ。 up!

※平壌の凱旋門と牡丹峰についてはウィキペディアの凱旋門牡丹峰(モランボン)の解説を参照。


『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.101~P.103より引用)

一九四六年八月十一日、私は「南から上がってきたスパイ」の汚名を着せられて、平壌の大同保安署に連行されました。南の李承晩が半島北部の政権に欲を出して密かに北に派遣したスパイだと決めつけたのです。

監獄暮らしといっても特に恐ろしくはありませんでした。経験があったからでしょうか。その上また、私は監房長と親しくなるのが上手です。二言三言話をすれば、どんな監房長でもすぐに友達になってしまいます。誰とでも友達になれるし、愛する心があれば誰でも心を開くようになっています。

数日経つと、一番端っこに座っている私を、監房長が上の場所に引っ張ってくれました。便器のそばのとても狭い隅っここそ私が一番好む場所なのに、しきりにもっと良い場所に座れと言ってきます。いくら嫌だと言ってもどうしようもないことでした。

監房長と親しくなったら、今度は監房の住人を一人一人調べてみます。人の顔はその人の何もかもを物語ってくれます。「ああ、あなたはこうだからこのような人であり、あなたはああだからあのような人である」と言って話を始めれば、誰もが驚きました。初めて会った私が心の中を言い当てるので、内心は嫌っても認めざるを得ません。

☆              ☆

監獄にいる問、罪を自白せよと数限りなく殴られました。しかし、血を吐いて倒れ、息が絶えそうになる瞬間にも、気を失わずに耐え忍びました。腰が折れたかと思うほどの激しい苦痛が襲うと、「天のお父様、私をちょっと助けてください」という祈りが自然と出てきます。そうすると再び気を取り直して、「お父様、心配なさらないでください。文鮮明はまだ死にません。こんなふうにみすぼらしく死んだりしません」と言って、堂々と振る舞いました。そうです。私はまだ死ぬ時ではありませんでした。私の前には完遂しなければならないことが山のようにあったし、私にはそれらをやり遂げる使命がありました。拷問ごときに屈服して同情を買う程度のいくじなしの私ではありません。今も私の体にはその時できた傷跡がいくつか残っています。肉が削げ、血が流れた箇所は、今はもう新しい肉が付きましたが、その日味わった激しい苦痛は、傷跡の中にそっくりそのまま残っています。私は、その日の苦痛が染み付いた傷跡を眺めて誓ったこともあるのです。

「この傷を持ったおまえは必ず勝利しなければならない」

ソ連の調査官まで出てきて私を糾弾しましたが、罪がないのでどうしようもありません。結局、およそ三カ月後の一九四六年十一月二十一日、捨てられるようにして釈放されました。拷問であまりに多くの血を流して命の危険がある状態でしたが、信徒たちがよく世話してくれました。無条件に尽くして私に生命を与えてくれました。


『真の御父母様の生涯路程2』
第二節「韓国解放とキリスト教を中心とした摂理の出発」より引用

<大同保安署に拘束(一九四六・八・一一)>

先生は一九四六年八月十一日、北韓の共産党により、宗教と称して詐欺をしたという罪名で、大同保安署に投獄されました。

動機がどのようになって、このような問題が起きるようになったのでしょうか。皆さんの中でも、腹中教について聞いたことのある人がいるでしょう。

一九四六年六月、共産党は、北韓全域において新しい宗教団体に対する弾圧を始めたために、それと類似した団体があれば糾弾しなければならない立場でした。

許孝彬氏の集団が摘発されました。純粋な国民に宗教という美名のもとに詐欺を働いたというのです。なぜなら、財産を売って作った服が、トラック数台分になるからです。そして、その神霊集団の許孝彬氏ゆえに、私が引っ張られて入ったのです。

また、私が南側から来たから、李承晩の手先だとか。しかしどんなに調査をしてみても根拠をつかむことができませんでした。それで、男の巫女であるとか、社会の風紀を乱すとか言って、捕まえて閉じ込めました。

*              *

<むごくひどい拷問>

先生が共産党に捕らえられ、むちで打たれる時、そのむち打ちがとても激しかったのですが、踏ん張りながら、どんなに打たれても倒れないと決意しました。

袋だたきになって、東西南北の十二方位を全部打たれても、ひたすら無言で打たれなければならない時が、一度や二度ではありません。牛の陰茎棒というのがあるのです。そのようなもの、知らないでしょう。牛の生殖器で作った棒です。それは革のようです。革よりもっとすごくて、溝がすーっと入っていて、このくらいの長さです。これで強く打つと、肉をえぐってしまうのです。一遍に、そこに血のあざがつくのです。そのようなもので打たれても、「打ってみろ、こいつ!」としたのです。

先生がそのような辱めを受ける立場で流した汗は、どんな汗でしょうか。ありったけの声でわめき散らしたならばそれ以上で、血を流したならばそれ以上だということを知らなければなりません。涙を流したならばそれ以上だというのです。一週間の間座って泣いたのちには、太陽の光が見られなかったのです。なぜでしょうか。神様がこのようにかわいそうであるのか、初めて知りました、歴史始まって以来。

先生は、それを知ったがゆえに、監獄で血を流して拷問を受け、死ぬようになる場でも、「神様、安心してください。私は弱い者ではなく、サタンのどんな威圧にも勝利できる男です」と神様を慰労してあげたのです。

先生はソ連の共産党に、一週間、眠ることのできない拷問も受けてみたのです。「こいつ、お前が耐えるか、私が耐えるか」としながら、おもしろい時間だと考えるのです。普通の人々は一週間も過ぎれば、全部こうして、寝ながらすべてを話してしまうのです。先生は、目を開けたままでもよく眠るのです。それを研究したのです。その時に訓練を受けたので、今も眠気が来れば、その方法を利用するのです。

真っ赤な部屋に座らせて、御飯も与えずに、一週間閉じ込めておくのです。真っ赤な部屋にずっと座っていると、狂ってしまうのです。何も見えなくなります。ですから、私のような人は目を開けて眠るのです。よく見ると、目は開けているのに眠っているのです。

それで、文総裁は男の巫女だといううわさが立ったのです。「あの人は閉じ込めておけば、鍵を開けて出てくる」と言って、七人が広がって、二十四時間見張るのです。

*              *

<釈放(一九四六・一一・二一)と腹中教の結末>

その時、先生は韓国にいる米軍のスパイとして告発されて、ソ連の調査官によって尋問を受けましたが、無罪だということが判明しました。

先生は、十一月二十一日に釈放されました。その時先生は、血をあまりにたくさん流していたので、ほとんど死んでいました。それで先生に従っていた人々は、先生が死んでいくと考えました。先生が再び生き返ったことは、一つの奇跡でした。


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