Google Mapで訪ねる主の路程(15)-平壌内務署逮捕と平壌刑務所への収監


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第15回-平壌内務署逮捕(1948年2月)と平壌刑務所への収監(同4月~5月)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第15回は、平壌内務署逮捕(1948年2月)と平壌刑務所への収監(1948年4月~5月)です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また統一教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

日本統治時代の平壌覆審法院・地方法院
文先生が平壌刑務所へ収監される前、判決を下された法廷として
使われた日本統治時代の平壌覆審法院・地方法院(裁判所)

平壌覆審法院・地方法院(裁判所)跡(現・平壌直轄市蓮花洞 現在の用途は不明)およびやや右上に平壌内務署跡(現・平壌直轄市外城洞 現在の用途は人民保安部事務局?)


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1914年当時の憲兵隊警務部と平壌覆審法院(クリックで拡大表示) 1919年当時の憲兵隊警務部と平壌覆審法院
(左)1914年の平壌地図より憲兵隊警務部と平壌覆審法院・地方法院(クリックで拡大表示)
/(右)1919年の平壌地図より憲兵隊警務部と平壌覆審法院・地方法院

1939年当時の憲兵隊警務部と平壌覆審法院・地方法院(クリックで拡大表示) 1942年の朝鮮総督府名簿に記載されている平壌覆審法院・地方法院
(左)1939年の平壌地図より憲兵隊警務部と平壌覆審法院・地方法院(クリックで拡大表示)
(右)1942年の朝鮮総督府名簿に記載されている平壌覆審法院・地方法院

1946年米陸軍作成地図より
1946年米陸軍作成地図より”Military Police [軍警察・秘密警察]”と
“Court [法廷]”(クリックで拡大表示)

WikiMapiaで見た平壌内務署のあった場所
平壌内務署のあった場所をWikiMapiaで見たところ。”Office”のマーキングがされている。
一方、”Court [法廷]”のあった場所は、WikiMapiaでは特にマーキングはない。

「平壌内務署」は”Military Police”=元「憲兵隊警務部」の場所であり、
法廷は”Court”=元「平壌覆審法院」の場所だった

平壌・景昌里(キョンチャンリ)での伝道活動を再開された文先生は1948年2月、今度は「平壌内務署」によって逮捕されます。前回は大同保安署(大同警察署の後身)による逮捕でしたが、管轄エリアが違うだけの平壌保安署でもありません。平壌内務署とはどういう部署だったのでしょうか。

前回、解放後から軍政下の時にかけ、日本統治時代の施設や設備をそのままの目的で使用し、警察署は保安署に、覆審法院(裁判所)は法廷に、刑務所(監獄)はそのまま刑務所に、と使われていたと述べました。
1948年2月は、ソビエト連邦軍政下のもとで、共産党が北の支配をほぼ固め終えつつあった段階でした。やがて同年9月には、朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言されます。
当時の「内務署」とは、歴史史料では明確にされていませんが、内務省傘下で、政治保安局(秘密警察・軍警察)の部署だったと思われます。共産主義に敵対する人物を政治犯として捕まえたり、キリスト教を始めとする宗教関係者を思想犯として捕まえていた部署です。

それを元に、1946年米陸軍作成の地図で探してみると、平壌の中心部に”Military Police(軍警察・秘密警察)”と書かれている建物がありました。この場所は、それより前、日本統治下時代の地図では「憲兵隊警務部」(軍隊の警察)があった場所です。軍隊の警察である憲兵隊ですから、逮捕者を拘留・拘置する部屋や、取り調べを行ったり拷問を加える部屋が備わった施設だったはずです。ソビエト連邦軍政下の共産党も、そのまま政治犯・思想犯を捕まえる「内務署」として使ったと類推できます。

なお、1948年当時の政治保安局は、現在の北朝鮮内での組織上は、人民保安部になっています。1946年に”Military Police”とされた建物があった場所は、現在のWikiMapiaの地図上では、単に”Office”としてだけマーキングされています。人民保安部関係の事務局、と考えられなくもありませんが、今はそれ以上、確認できる術はありません。

平壌内務署に逮捕され、またも激しい拷問を受けられた文先生は、1948年4月、法廷で判決を受けます。その法廷は、日本統治下時代に「平壌覆審法院・平壌地方法院(裁判所)」として建てられ、使われていた場所です。1946年米陸軍作成の地図では、”Court(法廷)”として書かれています。きちんとした弁護人がいたかどうかもわからない、形だけの法廷での判決とはいえ、その目的は、監獄・強制収容所へ送りこむことであったことは明らかでしょう。
 
 
平壌刑務所跡(現・平壌直轄市解放山洞 現在は朝鮮労働党中央宣伝部などの党主要施設)


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1914年の平壌地図に記載されている平壌監獄 1919年の平壌地図より平壌監獄
(左)1914年の平壌地図に記載されている平壌監獄
/(右)1919年の平壌地図に記載されている平壌監獄

1939年の平壌地図に記載されている平壌刑務所 1942年の朝鮮総督府名簿に記載されている平壌刑務所
(左)1939年の平壌地図に記載されている平壌刑務所
/(右)1942年の朝鮮総督府名簿に記載されている平壌刑務所

1946年の米陸軍発行地図より平壌刑務所
1946年の米陸軍発行地図に記載されている平壌刑務所

WikiMapiaで見た平壌刑務所のあった場所
平壌刑務所のあった場所をWikiMapiaで見たところ。現在は朝鮮労働党の主要施設が並ぶ

「平壌刑務所」も長く日本統治時代から使われていた場所だった

1948年4月に文先生が収監された平壌刑務所は、戦前の日本統治時代から、平壌監獄として長く使われ、その後、平壌刑務所として大きくなっていった場所です。1914年当時の地図から1946年まで時代を追っていくと、時代と共に、大きく拡張されていったことがよくわかります。

北朝鮮政権下で、平壌の町が大きくなっていくと、平壌刑務所のあった広い場所は、都市の中心部に飲み込まれることとなり、やがて郊外に移転したものと思われます。現在では、この場所に朝鮮労働党の主要施設が並んでいます。WikiMapiaでマーキングされているものを見ると、朝鮮労働党組織委員会、党中央宣伝部、党中央宣伝委員会、党歴史研究所、9号宴会場、党指導者邸宅などの党の主要施設が建ち並んでいることがわかります。

文先生はこの平壌刑務所で1か月半収監された後、強制労働を課せられる興南監獄に移送されていくことになります。
 
 


『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.103~P.104より引用)

こうして、私はもう一度気力を振り絞って教会の仕事を始めました。教勢が急に大きくなったのは、それから一年を過ぎた頃です。ところが、既成キリスト教会はそのような私たちを放っておきませんでした。既成教会の信徒たちがより一層私たちの教会に集まるようになると、反対する既成キリスト教会の牧師八十人以上が、共産党当局に投書して私を告発しました。これを受けて、私は再度共産党によって連行されたのです。平壌内務署に捕縛された日が一九四入年二月二十二日でした。鎖を付けて引かれていき、四日目に頭を刈られました。その時に私の頭を刈った人の姿まで生き生きと覚えています。教会を切り盛りしていた間に長く伸びた髪の毛が、ぼとりと床に落ちました。

捕縛されるやいなや、またしても鋭い拷問が開始されました。拷問を受けて倒れるたびに、「私が受ける鞭は民族のために受けるのだ。私が流す涙は民族の痛みを代表して流すのだ」という思いで耐え忍びました。極度の苦痛で気を失いそうになると、間違いなく神様の声が聞こえました。神様は息が絶えるか絶えないかという瞬間に現れます。

公判は四月七日でした。本来、拘禁されて満四十日になる四月三日が公判の予定でしたが、七日に延期されたのです。公判廷には、北で有名な牧師たちがぞろぞろと集まってきて、私にありとあらゆる悪口を浴びせました。宗教はアヘンだと言う共産党も私を嘲笑しました。公判を見に来た教会の信徒たちは、弁護側の席で物悲しく泣いていました。まるで子供や夫が世を去ってしまったかのように哀切な祈りを捧げていました。しかし、私は涙を流しませんでした。私を見て身悶えして泣いてくれる信徒たちがいるので、天の道を行く者として少しも寂しくなかったのです。「私は不幸な人ではない。だから泣いてはならない」と思いました。判決を受けて公判廷を後にする際、彼らに手錠のかかった手を振ってあげると、手錠からチャランチャランと音がしました。その音がちょうど鐘の音のようでした。私はその日すぐに平壌刑務所に収監されました。

平壌刑務所に入所して一カ月半が過ぎた五月二十日、私は興南監獄に移送されました。
 
 
『真の御父母様の生涯路程2』
 第三節「興南監獄の受難」より引用

<「平壌内務署」拘束(一九四八・二・二二、日曜日午前十時)>

先生が教会運動をするとすぐに、食口たちが増えました。しかしその当時、北韓政府の政策は、すべての宗教を抹殺することでした。また、既成教会の牧師たちは、彼らの教会の多くの信徒たちが先生の所に来たために、先生を告発しました。それで先生は、(北韓で)三度目の投獄をされました。その日が、一九四八年二月二十二日でした。

南韓のスパイとして追い込まれ、李承晩政権の手先だとか何だとか言いながら、ありとあらゆる話、あることないことすべてをかぶせたのです。「北側政権を略奪するためのスパイだ」など、あらゆることを言ったのです。

先生は監獄に入ったその日、腕に手錠をはめられながら、「これは神様が私を愛されているというラベルを貼られることだ」と考えました。

    *              *

<過酷な拷問、取り調べ>

私は血を吐く拷問の場で、何度も倒れながら、意識をすべて失ってしまう場でも、「お父様、私をどうぞ救ってください」とは祈祷しませんでした。「お父様、心配しないでください。まだ死にませんでした。いまだに死にません。あなたに約束した志操が、そして責任をもつべき使命が私にはあります。同情を受ける時ではありません」と、このような祈祷をしたのです。

私は孝子になって慰労する立場にあるので、血をぬぐい、姿勢を整え、拷問を受けて戻ってきて、監房に月の光がない夜でも、天を慰労した昔の生活を忘れませんでした。

拷問を受けて倒れるその瞬間が、神様の声を聞ける瞬間であり、今にも息が絶えそうなその場が、神様に会える場なのです。統一教会のこの真理が出てくるまでには、皆さんが知らない深い背後があり、谷があり、トンネルを通ってきたという事実を皆さんは考えもできないでしょう。「レバレンド・ムーンよ、どうやってここまで来たのですか」と、そう言える場であったということを、私は知っているのです。

私がむちで打たれるのは、私のために打たれるのではなく、民族のために打たれるのであり、私が流す涙は、この民族の痛みを身代わりした蕩減の涙だったのです。

    *              *

<法廷公判(一九四八・四・七)>

北にいる時、裁判を受ける日が本来は四月三日であったのですが、共産党が教会を弾圧する口実をつくっているうちに期日が遅れ、四月七日になってようやく裁判を受けました。この日が、拘禁されたのち、満四十日になる日でした。

先生がキリスト教に追われる立場で公判を受ける期間であり、共産党員たちに、宗教がどれほど悪く、阿片的なものであるかということを見せるために、その公判を延期したのでした。

私が北で公判廷に立つようになった時、北にいる誰、という牧師たちが来て、ありとあらゆる悪口を言いました。そのような、他人が知ることができず、他人が感じることができない衝撃を、今なお忘れられないのです。

    *              *

<食口たちの見送り>

公判廷で判決を受けて、刑務所に行く道でも、食口たちの前で、手錠の音を鳴らしながら手を振ったのですが、その音が今なお耳に残っているのです。

手錠をはめて、じゃらじゃらとさせながら、グッドバイしたことが今でも忘れられないのです。じゃらじゃら鳴った音が。そこから歴史的な後代の栄華が生まれ、後代の数多くの若者たちが決意を固められる誓いの基盤として爆発するのです。

    *              *

その時、平壌に残った食口たちが、手を振りながら見送ったことが忘れられません。私は涙を流さないのに、子供が死んでいくのでもなく、夫が去るのでもないのに、彼らがひたすらすすり上げて涙を流すのを見る時、それがどんなに悲壮ですか。先生はそれを見ながら、「天を求めていく人は不幸な人ではない」と思いました。

先生が監獄に囚われていく時の悲痛であったその時の声、身もだえしたその情景を、いくら忘れてしまおうとしても忘れてしまうことができません。それが苦痛です。考えれば一面では苦痛です。

<平壌刑務所に収監(一九四八・四・七~五・二〇)>

先生は、四月七日に手錠をはめられて平壌刑務所に行きましたが、希望の中で訪ねていったのです。この過程を経て出る日には、どのようになるだろうかと、本当に気になるのです。

刑を受けて監獄に行く時は、むしろ希望に満ちた足どりでした。なぜなら、刑務所にも神様が予備しておかれた人がいるはずだからです。

先生は、「また、私の一つの山を埋めるためのものが、来るべきものが来たな。このあとには何が来るだろうか」ということを考えるのです。その事件よりも、そのあとに何が来るかを考えます。

先生が監獄のような所に入っていけば、監房長と親しくなることにおいては選手でした。二言言三話せば、すぐに親しくなりました。そして、でんと座って、そこに入ってきた人たち、一人一人の心理を分析して、「この人はこのような顔をしているので、このようになるだろうし、あの人はあのような顔をしているので、あのようになるだろう」と話せば、嫌、ながらも認めます。

顔を見ながらほんの一週間、いや、三日だけ話をするようになれば、そのまま何の話をしても良いというのです。私が一番隅っこの狭い所に座っていると、しきりに引き上げようとします。監房長が「上がってこい」と言うのです。嫌だと言っても、しきりに引き上げるのです。誰でも友達になり、誰でも同志になるのです。

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