Google Mapで訪ねる主の路程(16)-興徳里特別労務者収容所と興南窒素肥料工場の強制労働


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第16回-興徳里(フンドグニー)特別労務者収容所と興南窒素肥料工場の強制労働(1948年5月~1950年10月)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第16回は、興徳里(フンドグニー)特別労務者収容所と興南窒素肥料工場での強制労働(1948年5月~1950年10月)です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また統一教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

戦前の窒素肥料工場で硫安を積み出す労働者 戦前の興南窒素肥料工場全景
戦前の窒素肥料工場で硫安を積み出す労働者/戦前の興南窒素肥料工場全景

興南(フンナム)窒素肥料工場(現・咸鏡南道咸興市興南区域)


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WikiMapiaでマーキングされている現在の興南窒素肥料工場(クリックで拡大表示)
WikiMapiaでマーキングされている現在の興南(フンナム)窒素肥料工場(クリックで拡大表示)

興徳里(フンドグニー)特別労務者収容所跡(現・咸鏡南道咸興市興徳里
 現在も収容所として使われている可能性が大)


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興徳里に位置する興南収容所(クリックで拡大表示)
興徳里に位置する興南収容所。WikiMapiaでマーキングされており
現在も収容所の可能性が非常に大(クリックで拡大表示)

1935年発行の日本陸軍参謀本部作成の地図(クリックで拡大表示)
1935年発行の日本陸軍参謀本部作成の地図。後に収容所ができる地名は興徳里。
当時の軍事秘密扱いだったこの地図でも、小さな集落だけで収容所らしい施設はまだ何もない。
地図の右端、海岸よりにあるのが興南窒素肥料工場(クリックで拡大表示)

1953年発行の米陸軍作成地図(クリックで拡大表示)
1953年発行の米陸軍作成地図。興南窒素肥料工場は黄色に塗られ星マークが付いている。
収容所のあった興徳里は “hungdong-ni”(フンドングニー)と書かれている。
また本宮収容所のあった本宮(ポングン)は “pon-gung” とある。(クリックで拡大表示)

自叙伝の記述通り、興南工場の西約3~4kmの場所に
本当に収容所があった! しかも今なお現役?

文先生は平壌刑務所で1か月半収監された後、強制労働を課せられる興南監獄に移送されます。興南監獄とは、興南窒素肥料工場で強制労働させる特別労務者収容所のことであると、自叙伝には説明がされています。なお、興南窒素肥料工場は戦前、日本窒素肥料株式会社が建設した大規模工場群であり、北朝鮮主権下でもそのまま引き継がれて稼働しています。工場はとても大きく、約1km四方もあり目立つことから、GoogleMapで興南地方を見ると、すぐにわかります。

一方、収容所の場所はこれまで明らかではありませんでした。自叙伝や「生涯路程」では、収容所と興南工場との距離を約4km弱であることにふれています。また、「生涯路程」には収容所のあった地名を見出しで「興南徳里」として記述しています。(関連映像資料では“徳里特別労務者収容所”としているものが多い)

興南工場から3~4キロ圏内をGoogleMapで探してみましたが、手がかりはありません。そこで参照したのが、世界中のさまざまな人によって、地図・衛星写真上にマーキングされているWikiMapiaでした。そこには、北朝鮮に旅行したり在住したことのある人だけでなく、脱北者や軍事専門家などによって、北朝鮮の秘密施設や重要施設がマーキングされています。果たして、興南工場から西方約3~4kmの位置に、「興南収容所」がマーキングされていました。当時と比べて規模が変化している可能性はありますが、現在も収容所として残っていたことは驚きの何物でもありませんでした。

裏付けのため、マーキングされている「興南収容所」の地名を調べました。1935年発行の日本陸軍参謀本部が作成した地図では、その場所は興徳里(フンドグニー)となっています。興徳里はまた、1918年(大正7年)発行の『最新朝鮮地理』でも、興南区域にある集落名を列挙した個所にも登場します。1953年発行の米陸軍作成地図では、”hungdong-ni”(フンドングニー)と書かれています。もし地名が「興徳里」なのであれば「興徳里特別労務者収容所」と呼ぶべきかもしれません。

強制労働と強制収容所は、文先生も語っているように、そのしくみが考え出されたのはスターリン時代のソビエト連邦です。一方、歴史史料を調べていくと、戦時中の日本が1943年9月に興南に戦争の俘虜収容所を開設したことがわかっています。「興南収容所」は、1945年8月の解放後、ソビエト連邦の共産軍政下で強制労働を伴う強制収容所として改められたもの、と考えるのが順当でしょう。実は、シベリア抑留を体験した多くの日本人が、1945年後半から1946年にかけて、この「興南収容所」に入れられ、強制労働させられた事実が手記などで明らかになっています。

来る日も来る日も文先生を含む千人もの囚人たちが
歩いた4km弱の道が見えた!

(クリックで拡大表示)
文先生を含む囚人たちが毎日歩いたであろう収容所と興南工場の間の道。
咸興(ハンフン)と興南(フンナム)を結ぶ幹線道路になっている。(クリックで拡大表示)

Google Earthで歩いた“道”を眺めた(クリックで拡大表示)
Google Earthで歩いた“道”を鳥瞰(ちょうかん)したところ。
Aが収容所で、Bが興南工場の入り口にあたる場所。(クリックで拡大表示)
実は、興南工場のさらに先4kmの岬の先端部分に、43年後の1991年に
文先生と金日成主席が会談することになる麻田(マジョン)主席公館がある。

来る日も来る日も、文先生を含む千人もの囚人たちが手をつなぎ、朝と晩、収容所と興南工場を往復したであろう主の“道”が、見えてきました。Google Earthで眺めてみたその景色は、おそらく夏の風景ですが、冬にはいったいどんな風景になるのでしょうか。東海(日本海)から吹き付ける寒風は、どんな感じだったのでしょうか、皆さんのイメージでその“道”を歩きながら想像をめぐらせてください。

文先生は、2年4ヶ月の間、この4km弱の道のりを囚人として毎日歩かれますが、実はまだその先がありました。興南監獄に入った1948年から数えて43年後の1991年、さらにその前方4km先の岬にある麻田(マジョン)主席公館で、文先生と金日成主席が会い、そしてすべて和解されていくのです。(麻田(マジョン)主席公館の場所は後の連載で紹介します)

本宮(ポングン)特別労務者収容所があったと推測される周辺
 (現・咸鏡南道咸興市本宮)


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1935年当時の本宮(ポングン)周辺
後に本宮収容所が建てられる1935年当時の本宮(ポングン)周辺
1935年発行の日本陸軍参謀本部作成の地図より(クリックで拡大表示)

「生涯路程」には、1948年5月、「興徳里特別労務者収容所」より前に、最初に入れられた収容所を「本宮特別労務者収容所」と記述しています。本宮(ポングン)は、李氏朝鮮時代に建てられた宮殿「咸興本宮」が残っている場所であり、比較的見つけやすい場所です。日本統治時代には飛行場もあったことが地図から見て取れます。しかしながら、その後は収容所がなくなったのか、現在その周辺を見ても、収容所のあった場所はうかがい知ることはできません。
 


『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.104~P.107より引用)

平壌刑務所に入所して一カ月半が過ぎた五月二十日、私は興南監獄に移送されました。自分一人であれば逃亡でも何でもできましたが、強盗犯や殺人犯と一緒の組になっていたので、できませんでした。列車で十七時間ほどかかる遠い道のりを行きながら、じっと座って窓の外の光景を眺めていると、悲しみが込み上げてきました。脇を小川の水が流れ、うねうねと谷間に続くその道を、囚人の身となって行かなければならないのです。開いた口がふさがらないとはこのことでした。

興南監獄とは、興南窒素肥料工場の特別労務者収容所のことです。そこで私は二年五ヵ月の間、苦しい強制労働に従事しました。強制労働はもともとソ連で始まったものです。ソ連は、世論と世界の目があるために、資本家や反共主義者をむやみに抹殺するわけにはいかず、新たにこの刑罰を考案しました。強制労働の刑を受けると、つらい労働にへとへとになりながら死ぬまで働くしかありません。この制度をそのまま真似た北朝鮮の共産党は、すべての囚人に強制労働をさせました。過酷な労働をくたくたになるまでやらせて、自然と死ぬように仕向けたのです。

興南監獄の一日は明け方四時半に始まります。囚人を全員起こして前庭に整列させ、不法な所持品がないかどうか、まず身体検査をします。衣類を全部脱がして、埃一つも見落とさないようにパタパタ叩いて隈無く探すので、優に二時間はかかりました。興南は海が近く、冬には脱いだ体に寒風が吹きつけて、肉が抉られるような痛みがありました。身体検査が終わると、粗末な朝ご飯を食べ、十里(約四キロメートル)の道を歩いて工場に向かいます。四列に並んで、顔を下に向けたまま、手をつないで歩きます。囚人たちの周りを小銃と拳銃で武装した警備員たちが付いて行きました。万一列が乱れたり、手が離れたりすると、脱走の意図ありとみなされ、容赦なく殴打されました。

雪が道に積もった冬の日、寒い明け方の道を歩いていくと、頭がくらくらしました。凍りついた道はよく滑るし、肌に突き刺さるような冷たい風が吹くと、頭の後ろの毛が逆立ちます。朝ご飯を食べたといっても、元気は出ません。足を踏み外してばかりいる毎日でした。しかし、力の抜けた足を引きずってでも工場に行かなければなりません。道すがら意識が朦朧となる中で、私は自分が天の人だという事実を繰り返し考えながら歩いて行きました。

肥料工場には、肥料の原料となる硫酸アンモニウム(硫安)が山となって積まれていました。ベルトコンベヤーで運ばれてきて、そこから下に降り注ぐ硫安は、白い滝のようにも見えました。降り注いだばかりの硫安は熱を帯びて、真冬にも湯気がゆらゆらと立ち上るほどでしたが、時間が緻つと冷めて氷のようにかちかちになりました。山と積まれた硫安をすくい上げて、かます(わらむしろを二つ折りにして縁をとじ、袋にしたもの)に入れるのが私たち囚人の仕事でした。「肥料山」高さ二十メートルを超える巨大な硫安の山の呼び名です。八百人から九百人が大きな広場に出て、硫安をすくい上げて袋詰めする場面は、あたかも大きな山を二つに分けるかのようでした。

十人一組で一日に千三百かますやるのが私たちに与えられたノルマです。一人の一日当たり責任量は百三十かますになります。それをやらないと食事の配給が半分に減らされてしまうので、生死の分かれ目と思って必死に働きました。硫安を詰めたかますを少しでも楽に運ぼうと、針金で輪を作って、かますを結ぶ際に使いました。運搬用のトロッコ(貨車)が通るレールの上にこの太い針金を乗せておくと、平らに潰れて針の代わりに使えます。かますに穴を開ける時は、工場のガラス窓を破って、そのガラスを使いました。看守も苦しい労働に悩まされる囚人に同情して、工場の窓を破るのを見てもそのままにしていました。私はある時、その太い針金を歯で噛み切ろうとして、そのまま歯が真っ二つに折れてしまいました。今でも私の門歯をよく見れば歯が欠けていますが、興南監獄で得た忘れることのできない記念品です。

どの囚人も重労働で疲労困態して痩せこけていくのに、私は体重七十ニキロをずっと維持して、囚人たちの羨望の的でした。体力だけは維持して少しも他人が羨ましくなかった私も、一度だけマラリアにかかってとても大変だったことがあります。一月近くマラリアにかかっていても、私が仕事をできなければ他の囚人たちが私の分までやらなければなりません。そうならないように、一日たりとも休みませんでした。このように体力があったので、私は「鉄筋のような男」と呼ばれました。いくらつらい重労働であっても我慢できました。監獄であろうと強制労働であろうと、この程度は問題になりません。どんなに鞭が恐ろしく、環境が悲惨だとしても、心に確固たる志があれば動揺しませんでした。
 
 
『真の御父母様の生涯路程2』
 第三節「興南監獄の受難」より引用

<興南本宮特別労務者収容所に移送(一九四八・五・二〇、午後三時ごろ)>

今から数十年前の、五月二十日が思い出されます。この日がどんな日かといえば、平壌内務署に捕らえられて行って、裁判を受けて、興南の監獄に移送されて行った日です。

むちで打たれ、無念さと、悔しさで、泣きかけて、天に、恥ずかしくて顔を覆い、姿勢を正す時がいくらでもあるということを知らなければなりません。それゆえに、私が監獄に行くようになる時は、殺人囚と手錠をかけてくれと言いました。私は殺人囚の友達になりました。

手錠をはめて、興南に行くのに、十七時間かかったのです。ところで、車中で何を思ったでしょうか。あぜんとするのです。私があぜんとなれば、神様はどれほどかわいそうかというのです。それで、決心して窓辺を眺めながら、すべての山野の景色を眺めながら、どんなに深刻であったでしょうか。私一人で行けば逃げやすいのですが、その時一番悪い強盗と二人で組になって手錠をはめられて行きながら、考えたことがどんなに息が詰まったことでしょうか。

興南の監獄へ移送されて行く時、山の谷間にさしかかって、谷川の道に沿って歩いたその時が、本当に新たに感じられるのです。くねくねした山の谷間の道を歩いていったその時が、今も忘れられません。その歩みは、新しい世界に向かって出発した歩みでした。監獄生活をどのようにしていくのか。難しいけれど、私は行くのです。その時が新しい自我を覚醒できる良い機会になったのです。

監獄に入っていく時、先生は、サタン世界から神様の世界へ移っていける一つの結果をもってくるためには、このような現象が起こるのだと考えました。そのような所に行っても、正体を明かさず、内外に変わらないと考えました。

<興南徳里特別労務者収容所に投獄(一九四八・六・二一~一九五〇・一〇・一四)>

一九四八年六月二十一日、この日は先生が収容所に入っていった日なのです。

先生は北韓の共産党の監獄に入っていき、二年八ヵ月の間、重労働をしました。どんな労働だったかといえば、肥料工場の仕事でした。

ソビエト革命後、多くのロシア人たちは強制労働に苦しめられました。共産主義の理論では、彼らの前にどのような有産階級や反共産主義分子たちもいてはならないのです。彼らは、心の中ではすべての反対者たちを殺したいと思っているのですが、世界の世論のゆえに、それができません。

それで共産党は彼らを、強制労働に動員させるのです。そして困難な労働でもって彼らが死ぬ時を待つのです。北韓で監獄にいる時、先生は強制労働収容所に閉じ込められました。金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を三年の間、困難な労働に動員し、彼らを死ぬまでそのままにしておきました。

<朝の身体検査と一里の道を徒歩で労役に(四:三〇~九:○○)>

朝、労役に出発する時、監房からみな出てくるのです。広場に出て、不法な所持品がありはしないかと全部点検するのです。身体検査をするのです。こうして、九時に作業が始まるとすれば、一里の道を行くのに一時間ないし一時間二十分かかるのです。それゆえに、御飯を食べてからすれば、二時間以上かかります。ですから労役に出発するには、普通、明け方四時半に起きて、九時に作業に就くようになるのです。それで、出ていって、さっと座ると、頭がぐるぐる回るのです。頭がぐるぐる回って、立とうとすると立ち上がることができないのです。

二時間も身体検査を受ける時は、身を切るような寒さに遭いました。むしろ仕事場に出て行って仕事をするほうが、どんなに自由であるか分かりません。

興南は、海からの風が吹くと貝殻石が飛んでくる所です。射るように入ってくる風がどれほど怨讐なことか。我知らず、「ウオー」と声が出るくらいに震えるのです。いくら声を出すなと言っても、そうなるのです。

先生はその場で、「うむ、もっと寒くなれ、もっと寒くなれ、もっと寒くなれ」、と思いながら、それを克服するための戦いをしたのです。

毎朝、監獄を出発する時、手と手をつないで四列に立たなければならず、横には小銃と拳銃で武装した警備員たちがいます。もし、ゆるんだり、手をつながなかったことが発見されると、脱出しようとする者とみなされて、告発されるのです。自分の頭をまっすぐに上げることはできませんでした。

また朝食を食べて出かけるのですが、行きながら何度も足が空を踏むのです。四キロメートルを歩いていくのに、足が空を、五、六回、ある時は十回以上も踏むのです。力が出ないのでそうなるのです。その足を引きずっていって仕事をするのです。先生はそのような歴史があるために、困難な時はいつもそれを考えます。そのような時、気が遠くなる時、私は天の人であるという命題を立てておいて、終わりまで越えて行きました。
 
特報レポート 特別編-ついに見つかった!興南収容所の写真 2013.7.21掲載
 
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