第17回-国連軍・韓国軍による元山(ウォンサン)上陸と興南(フンナム)解放(1950年10月)
興南解放直後の国連軍のようすがわかる、解放された興南上空を飛ぶ米海軍機の写真が見つかりました。背後に見えるのが興南港と港に隣接した興南肥料工場です。中段にその写真を追加しています。(2022年6月筆者記)
「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第17回は、国連軍・韓国軍による元山(ウォンサン)上陸作戦と興南(フンナム)解放(1950年10月14日)です。
〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。
▲B29による爆撃。米空軍発行の資料 “The United States Air Force in Korea 1950-1953”
によると、1950年7月30日から8月3日までの5日間、興南化学工場・本宮化学工場一帯
を爆撃し、甚大な被害を与えたとの記録がある。生涯路程には1950年8月1日、B29が大
量に飛来、興南を激しく爆撃したという記述があるが、ちょうどそれを裏付ける形である(左)
/▲B26により空爆される元山の町。撮影日時は不明(右)
▲仁川上陸の4週間後の10月26日、元山(ウォンサン)に上陸する米海兵隊部隊。
元山港沖合いに仕込まれた大量のソ連製機雷の除去、掃海作戦に手間取ったという(左)/
▲1950年10月14日の興南の解放から間もない11月2日、興南の西約12kmにある
チギョン(現在の咸州邑)と咸興(ハンフン)との間、咸興西方の幹線道路を歩く米海兵隊。
橋が咸興にしかかかっておらず、かつ定平(チョンピョン)方面への一本道であることから、
興南解放の後、文先生一行はきっとこの道路を逆向きに通って平壌に向かったはず(右)
出所:US Marines-“Frozen Choshin” [www.koreanwar.org] 掲載
国連軍・韓国軍による元山(ウォンサン)上陸と興南(フンナム)解放
A.国連軍が上陸作戦を行った元山 B.文先生が収容されていた興南収容所
▲現在ある道路を元山から興南方面へ歩いた場合の所要時間 – Google Mapより
▲1950年10月、東海岸に沿って元山から咸興、興南と陸路を攻め上がった
韓国軍(ROK)の進路と、元山への上陸作戦をとった米海兵隊(MARINE)の進路
▲1950年10月1日~26日の作戦。韓国陸軍(ROKA)が元山に到達したのが10月10日。
10月21日には韓国陸軍第1部隊(ROKA 1 Corps)の進撃によって、興南・咸興の北方まで
前線が押し上げられているのがわかる。エリアを囲む境界線に仁川上陸作戦の実行部隊であるJTF7
(第7統合任務部隊=Joint Task Force Seven)の表記。海上のTF77は空母第77任務部隊。
上記地図にある元山(Wonsan)への到達日、元山沖の機雷掃海作戦の日付は次の通り。
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Arrivals: 到達:
ROKA,10 Oct. 大韓民国陸軍 10月10日
MAW1,11 Oct. 米第1海兵航空団 10月11日
1MARDIV,26,Oct. 米第1海兵師団 10月26日
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Minesweep 機雷掃海作戦(※日本も加わる)
10 Oct.- 2.Nov 10月10日-11月2日
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▲10月14日興南が解放された直後の10月20日~24日の戦線状況。北方の山
岳地帯に共産勢力がいることが読みとれる。文先生一行が平壌へと移動して行か
れるとき、北西部は戦争の最前線であるため、おそらく避け、国連軍が解放して
いた元山方面への南寄りの進路を取られたに違いない。いずれにしても山間部は
共産勢力が潜んでいる可能性があり危険であったはず。略称は次の通り。
ROK…韓国軍、MAR…米海兵隊、CCF…中国人民義勇軍、NK…北朝鮮軍
解放直後の興南上空を飛ぶ米軍機
解放直後の興南上空を飛ぶ米海軍機。背後は興南港(左)/1950年10月中旬以降 解放された興南沖に展開する米軍空母と複数の米海軍機(右)- flickrより
元山沖合いの機雷除去掃海作戦を極秘裏に行っていた日本
本題とは少し離れますが、韓国動乱(朝鮮戦争)に実は日本も秘かに参戦していたことが、近年明らかになっています。連合軍の支配下にあった当時、GHQが極秘裏に命令を下し、日本の海上保安庁隊員らが元山港の沖合いを中心に機雷除去の掃海作戦を行っています。動員人員は述べ1200名とも言われ、死者まで出したとされるその作戦ですが、近年まで歴史の表舞台に出ることはありませんでした。鈴木秀隆著論文『朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊』によると、「1200名の旧海軍軍人が元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海に従事して、327キロメートルの水道と607平方キロメートル以上の泊地を掃海し、機雷27個を処分したものの、掃海艇1 隻が触雷・沈没し、死者1名重軽傷者18名を出した」としています。
日本が朝鮮戦争に極秘裏に参戦していた事実をふまえると、文先生のいる興南を解放するために、空から米空軍が爆撃を行い、陸から韓国軍が進軍し、海路を日本の掃海部隊による機雷除去をした後に米海兵隊の上陸作戦が行なわれており、結果的に第二次世界大戦後の摂理国家である韓日米が協力した形になっていました。
国連軍に加わって参戦した16カ国に加え、極秘裏に日本も17番目の国として参戦していたと言われる根拠が、この日本特別掃海隊の派遣です。
参照記事:日本特別掃海隊 – Wikipedia
共産軍の猛反撃と興南撤退
興南解放後、文先生一行は平壌へと向かいます。そうした後、国連軍はやがて共産軍の猛反撃にあい、じり貧状態になって、1950年12月24日、南へ向かうたくさんの避難民を艦船に載せ、興南港を最後に興南から撤退することになります。これが興南撤退作戦です。
興南港から艦船に乗って脱出するたくさんの避難民(左)/
撤退後に艦砲射撃して興南港の施設を破壊する米軍艦船(右)
出所:US Marines-”Frozen Choshin” [www.koreanwar.org] 掲載
『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.115~P.116より引用)
興南(フンナム)で投獄されていた間に朝鮮戦争(一九五〇年六月二十五日に北朝鮮が突如、韓国を侵略した。韓国では「六・二五動乱」と呼ばれる)が勃発しました。戦争が始まって三日目、韓国軍はソウルを明け渡して南部に後退しました。この非常事態に対処しようと、アメリカをはじめとする十六カ国が国連軍を組織して参戦します。仁川(インチョン)から韓国に上陸した米軍を主力とする国連軍は、ここから攻勢に転じて、北朝鮮の代表的な工業都市である興南に押し寄せていきました。
興南監獄は自然と米軍の攻撃目標になりました。爆撃が始まると、看守たちは囚人をほったらかしにして、全員防空壕に避難してしまいました。囚人が生きようが死のうが彼らには関係のないことでした。
☆ ☆
ところが、まさにその時、処刑を翌日に控えた一九五〇年十月十三日、三八度線を越えた韓国軍と国連軍が興南に押し上がってきたのです。米空軍のB29爆撃機は十四日、興南肥料工場とその付近一帯に激しい爆撃を加え、興南全体が火の海になるほど梅雨の雨のように爆弾を降り注ぎました。危険を察知した看守たちは、その前に逃げ出していました。ついに私たちを囲んでいた監獄の門が開かれました。夜中の二時ごろ、私は他の囚人たちと共に、堂々と歩いて興南監獄を出てきました。
二年五カ月ぶりに監獄から出てきたので、みすぼらしい姿に我ながら呆れました。下着も上着も、どれ一つとして破れていないものはありません。しかし、そのぼろをまとった乞食同然の姿のままで、監獄から私に付いてきた者たちと一緒に、故郷ではなく平壌に向かいました。故郷で私の心配をして、泣いて月日を送っている母の姿が目に浮かびましたが、平壌に残っている信徒たちをまとめるのが先でした。
『真の御父母様の生涯路程2』
第三節「興南監獄の受難」より引用
<国連軍の興南上陸と劇的な出獄(一九五〇・一〇・一四、深夜二時ごろ)>
最後には、どうなるのでしょうか。監獄の門は開かれているのです。監獄の門が開かれて、出ていかなければならないのです。
国軍は、元山(ウォンサン)を一番先に奪還しました。平壌には一九五〇年十月十九日に入城しました。ここ興南を北韓地域の中で一番先に奪還しました。そうして、彼らが逃げたので先生が出てきたのです。
それは、神様が急いで救わなければならない一人の息子が、そこにいるためでした。十月十二日、刑期が七年以上である囚人、およそ七十名ほどを、三里ほどの山の中に引いて入っていき、全部殺してしまいました。その当時、先生の刑期は五年であったために、その次の、次の日が私が引っ張られていく番でした。ですから、神様はお忙しかったことでしょう。十三日、夜道を見渡すと既に事態が変わっていました。国連軍が興南に上陸したのです。そのようにして、ついに十月十四日、共産軍が退いて、すぐ私たちは監獄から抜け出てきました。
その日の夜、総攻撃があって、夜中の二時ごろから逃げました。
私の場合、刑務所から出てこようとすれば、判事が許可してくれるのではありません。サタンがしてくれたのです。サタンの公認を受けてこなければならないのです。
先生は、先生がすることになっていたすべてのことを完遂したので、天使長国家(アメリカ)と国連軍が北韓を攻撃して、先生を解放させました。それで先生は監獄を出てきました。
一九五〇年十月十四日です。先生の死刑執行予定日の前日、マッカーサー元帥の連合軍が、先生をそこから救出してくれたのです。それは、全く神様の恩寵でした。
国連軍が上陸することによって先生が監獄から出てくることになったこと、それが民主世界が恵沢を受けることができる条件になったのです。言い換えれば、国連軍が上陸して、監獄の門を開いて、先生を救出するようになったために、そこから民主世界が救いを受け、後援を受けることのできる因縁が残されたのです。
十月は、統一教会の解放の月です。十月四日(西大門刑務所出監日)がそうであり、十月十四日(興南収容所出監日)がそうです。それを思うと、とめどなく涙が先立つ月です、私においては。その期間に民族をみな失ってしまいました。私が愛する家庭も失ってしまい、愛する妻子までもみな失ってしまいました。
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