第18回-国連軍・韓国軍の撤退と平壌から南下/臨津江での祈祷(1950年12月)
この記事を執筆した後に、龍媒島(ヨンメド)が陸からどのぐらい離れていたのか、遠浅の海のようすはどんな感じだったのか知りたいと思って、龍媒島周辺の日本統治時代の古い地図を入手していました。中段にその地図を追加しましたのでぜひご覧ください。(2022年6月筆者記)
「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第18回は、国連軍・韓国軍の撤退と平壌から南下/臨津江での祈祷(1950年12月)です。
〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。
1950年11月 平壌を防衛する国連軍/平壌から南下する文先生一行(江東教会ブログより)
1950年暮れ大邱地方を行く避難する人たち/北から避難する人たちと警備する国連軍兵士
朝鮮戦争に中国人民義勇軍が参戦したことにより、国連軍・韓国軍は撤退を余儀なくされ、文鮮明先生は1950年12月4日夜、2人のお弟子さんを連れて大同江(テドンガン)を舟で渡り、平壌を脱出、南下します。さらに12月21日早朝、封鎖される直前に38度線にほど近い臨津江(イムジンガン)を渡りますが、そのときに文鮮明先生は将来、平和的に南北統一を果たすことを祈ります。
国連軍の中核である米軍が記録した朝鮮戦争の記録や地図史料によれば、平壌を出発した翌12月5日には平壌市街の南端に防衛ラインが下がっていて、文先生たちの平壌からの避難は、まさにぎりぎりだったことが裏付けられます。さらに、臨津江を渡った翌々日の12月23日には、臨津江の南岸に沿って防衛ラインが下がっており、こちらも自叙伝の記述を裏付ける形になっています。
韓半島情勢を巡る動きが激しくなっていますが、このときの文鮮明先生の行動や祈りの内容が、南北統一をめざす原点として、今まさに必要なことだと認識を新たにしてくれます。
平壌と景昌里(キョンチャンニ)の位置と大同江(テドンガン)
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▲『統一教の足跡Ⅰ』には、平壌から避難を始めた12月4日夜、文鮮明先生と金元弼氏、さらに足の骨が
折れて歩けないために自転車に乗せられた朴正華氏ら三人が、舟で大同江を渡ったことがふれられている。
Map上では、文鮮明先生が興南へ収容される前に活動の拠点としていた景昌里の位置をマーキングした。
▲国連軍の中核である米陸軍第8軍の防衛ライン撤退を表す地図(クリックで拡大表示)
(出所:www.koreanwar.orgのKorean War Mapsより)
米陸軍第8軍の防衛ライン撤退を表す地図を見ると、12月3日には平壌の市街地の北端にあった防衛ラインが、同5日には大同江を越えて市街地の南端に下がっています。文先生たちの4日夜の避難は、自叙伝や生涯路程の記述の通り、まさにぎりぎりだったことがわかります。
さらに暮れの迫った12月23日には、ソウルの北方、臨津江(イムジンガン)沿いまで防衛ラインが下がっていることが地図から見て取れます。
▲平壌から臨津江までの文鮮明先生一行の避難ルート(出所:『真の父母様の生涯路程2』)
龍媒島(ヨンメド)と干潟の道
▲龍媒島と青丹邑との位置関係をWikiMapiaで見たところ。
龍媒島までの遠浅の海を歩いた予測ルート
龍媒島までの遠浅の海を歩いた予測ルートを赤色の線で描いてみた。緑色の線は北朝鮮時代に埋め立てが進んだ海岸線の位置。1926年/1936年発行の日本陸軍参謀本部作成の地図より(クリックで拡大表示)
生涯路程には、龍媒島への干潟の道を歩いたことが記されています。しかし龍媒島で船に乗ることができず、来た道を戻るしかなかった徒労感はどれほどだったでしょうか。しかも北方から中国人民義勇軍、北朝鮮軍がじりじりと迫ってきている状況です。
臨津江(イムジンガン)と自由の橋
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▲もともと鉄道用の橋で上り下りで二つあった橋だが、朝鮮戦争の爆撃で
一方の橋は破壊された。橋の名前の由来は自由の橋-Wikipediaを参照。
▲Google Earthで見た臨津江と黄色で表示されている休戦ライン(クリックで拡大表示)
通行を遮断される寸前で文鮮明先生一行が臨津江を渡り終えたのは、12月21日の早朝でした。このことを裏付けるように、12月23日には、臨津江に沿って防衛ラインが下がっていることが上記の米陸軍第8軍の撤退地図からは、見て取れます。
文先生が渡り終えたとき、北に向かって「自由世界の力を集めて必ず北朝鮮を解放し、南北を統一します」と祈られた内容は、いつになったら実現できるでしょうか。
▲休戦を迎えた1953年時点での臨津江(イムジンガン)付近の地図。橋は「FREEDOM」と
表示されている。上方から左下まで帯のように広がるのが休戦ライン。(クリックで拡大表示)
(出所:www.koreanwar.orgのKorean War Mapsより)
▲現在の臨津江と再び京義線の鉄道橋となった自由の橋(Wikipediaより)
『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.117~P.120より引用)
平壌に着くとすぐ、投獄される前に一緒だった信徒たちを一人一人捜して回りました。彼らがどこで何をしているのか気になり、心配でなりませんでした。戦争の混乱で別れ別れになっていましたが、何としてでも彼らを捜し出して、きちんと生きていけるように後始末をつける必要がありました。ただ、誰がどこに住んでいるかを知るすべはなく、平壌市内を見境もなく歩き回って、隅々まで捜すしかありませんでした。
☆ ☆
十二月四日の夜、南側に向かって歩き始めました。私と金元弼をはじめみんなで、避難民の群れの三十里 (約十ニキロメートル) ほど後ろを付いていきました。というのも、思うように歩けない信徒がいたのです。彼は興南の監獄から私に付いてきた人でした。平壌で先に監獄から出た彼を捜していたら、家族は皆避難してしまって、足の折れた彼一人が空っぽの家に残っていました。私は歩けない彼を自転車に乗せて連れて行きました。立派な軍用道路は軍隊が占領して使えないので、凍りついた田んぼの上を歩きに歩いて避難の道を急ぎました。背後から中国人民解放軍と北朝鮮軍が迫ってきており、その上、歩けない者を連れて足場の悪い道を行ったので、その苦労は尋常ならざるものがありました。あまりにひどい悪路では、彼を背負って、空の自転車を引いて進んでいきました。荷物になるのは嫌だと途中で何度も死のうとする彼をなだめて、時には大声で怒鳴りつけもしながら、最後まで一緒に下っていったのです。
☆ ☆
避難路を歩き続けていくと、やがて臨津江の近くに到着しました。ところが、どういう訳か一刻も早く川を渡らなければならないと心が急かされました。この峠を越えて初めて生存の道が開かれると思ったのです。私は金元弼を容赦なく追い立てました。
幸いにも川の水はかちんかちんに凍っていて、私たちは先に来た避難民の後を追って臨津江を渡りました。後から後から休むことなく避難民が集まってきていました。ところが、私たちが臨津江を渡り終えるや、国連軍はこれ以上渡ってこられないように川を閉鎖してしまいました。少しでも遅れたら渡河できなかったかもしれない間一髪の出来事でした。
ようやく川を渡ると、通り過ぎてきた方をちらりと振り向いた金元弼が、恐る恐る尋ねてきました。
「先生は、臨津江が閉鎖されることをあらかじめご存じでしたか」
「当然のことだ。天の道を行く人の前にはそのようなことが多くあるのだ。一つの峠だけ越えれば生き延びられるのに、人々はそれを知らないのだ。一分一秒が急がれる状況だったので、いざという時にはおまえの胸ぐらでもつかんで渡るつもりだった」
金元弼は私の言葉に感動した様子でしたが、私の心は複雑な思いでいっぱいでした。三八度線で南北が分断された地点に到着した時、私は片方の足を韓国に、もう片方の足を北朝鮮にかけて祈祷を捧げました。
「今はこのように強く押されて南下していくとしても、必ずもう一度北上していきます。自由世界の力を集めて必ず北朝鮮を解放し、南北を統一します」
避難民の群れに交じって歩いて行く間も、ずっとそう祈り続けました。
『真の御父母様の生涯路程2』
第四節「興南から釜山まで自由南下」より引用
<平壌出発(一九五〇・一二・四)>
平壌の都から、みな避難して行ったのちに私が出発したのです。そうして、足が折れて自分で歩けなくなっている人を私が自転車に乗せて引いてきました。人民軍、八路軍(=国民革命軍)、中共軍を三里後ろにして、一番最後に出てきたのです。私は死んでも神様の前に言うべき言葉があるのです。私は約束したとおりにする人です。
先生が北朝鮮を出発した時は、一九五〇年の冬でした。一九五一年に、南海岸にある釜山まで下ってきました。
* *
<龍媒島一・五里の干潟道の往復>
一日目の夕方に越えて行こうとして越えられず、二日目の夕方にも越えられず、三日目に荷物をまとめて逃げたのです。そのような時には機転が利かなければならず、勘が鋭くなければなりません。そのような時は、荷物をまとめるにも、先にまとめなければなりません。
そのようにして龍媒島に行き、一番最初に船に乗ったのですが、群衆が押し寄せてきて、大騒ぎになったので、どうなったかといえば、軍隊と警察の家族でない者は引っ張り出されたのです。そのような状況になってしまいました。ですからやむを得ず追い出されたのです、他にすべがありますか。龍媒島に行った第一の旗手が結局、再び戻されることもあったのです。環境に追われてそのようになったのです。間違いなく先頭で南側に出てくるところでした。
そのように龍媒島を通って韓国に向かう船に乗ろうとしたのですが、その時は警察官たちもみな後退するので普通の人がどうして乗れますか。そうして龍媒島に行ってから船がないので再び引き返してきたのです。そして再び三十八度線を越えて行ったのです。
* *
<真夜中に強行軍で臨津江(イムジンガン)まで(一九五〇・一二・二〇~二一)>
このように、様々な問題を経ながら避難してきましたが、夕暮れ時になって、共に避難してきた人たちが、歩き疲れているのです。疲れ切ってしまっているのです。それで、村に入って寝ようとしたのです。しかし先生は、夜を明かしてでも臨津江(イムジンガン)を越えなければならないと感じたのです。他の人々がみな寝るのに、先生が行こうと言うので、「先生は何であんなに意地っ張りなのか!」このように思ったはずです。膨れっ面をしていました。夜、他の人々が全部寝ているのに、私たち三人は自転車を引っ張って臨津江まで出てきたのです。臨津江の川岸に来てから寝ました。午前一時半か二時くらいに到着したのです。
三十八度線から青丹まで八里の道のりです。その道のりを月夜に歩いた、そのことが忘れられません。どれほど疲れてだるいことか、この人(金元弼)は荷物を担いで歩きながら居眠りしていたです。分からない人はそうなのです。しかし先生にはその一歩が忙しいのです。今晩中に臨津江の先端まで行かなければいけないという、そのような何かがありました。そのような時には、先生は非常作戦、非常措置をするのです。アンテナを最高に立てるのです。
* *
<臨津江を渡りソウルに(一九五〇・一二・二一~二七)>
その次の心配が何かと言えば、臨津江を渡っていこうとすれば水が凍らならけれぱなりません。その時、気温が下がって、臨津江が凍ったのです。そうして、明け方早くに起きて出発したのです。臨津江が凍りついていて、結局川が渡れたのですが、私が一番最後に渡っていきました。そのあとはカットされたのです。カットして全部送り返されたのです。このようにして韓国の地に来ました。
国連軍が撤収すると同時に、私たち一行を最後に、封鎖されてしまいました。そのあとの人々は全部、戻っていったのです。こんな時、一分でもうろうろしていたら、どうなっていたことでしょうか。人の運命は、時間の問題ではありません。すべて滅ぼしてしまうのです。そのようなことは、私たちの人生においてもたくさん起こるのですが、天道をわきまえていく道の前に、それがないだろうかというのでず。どんなに深刻かというのです! それを皆さんは知りません。
一つの峠だけ越えれば生きる道があるとすれば、わき目も振らず追い立てて行かなければなりません。「行かない」と言えば、ぶん殴らなければなりません。胸ぐらをつかんで、無理やりにでも引っ張っていかなければならないのです゜それが愛です。
<三十八度線の祈祷>
私は、三十八度線を越える時に祈祷した言葉を忘れません。「天の父よ! 私は韓国の地に行きます。私は北韓に来てみ旨を成すことができずに敗者のつらさをもったまま、獄中の身を免れることができませんでした。そして今、追われる群れの歩みに従って南に行きます。しかし、またこの地を訪ねてこなければならないことを知っています。たとえ私が、三十八度線の北側に行くことができなくても、私の思想を植えて後孫を行かせます。彼らが行くことができなければ、私に従う弟子を送って行かせます」と、そのような決心をしてきたのです。
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