第20回-釜山・ポムネッコルと土壁の家(1951年8月~1953年1月)
「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えて行かれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第20回は、釜山・ポムネッコルと土壁の家(1951年8月~1953年1月)です。
〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ推測したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。
▲レーション箱で屋根と壁を組み立てた土壁の家(左)/文鮮明先生が毎日涙ながらの祈祷をした
「涙岩」。記念館から100mほど登った場所にある-写真提供:清平成和サイト。(右)
▲ポムネッコル記念館内に保存されている土壁の家を支えた岩-写真提供:釜山在住A.S.さん(左)
/「原理原本」を執筆される文鮮明先生と鉛筆を削る手助けをした金元弼先生を描いた絵(右)
釜山・ポムネッコルと土壁の家〔現在はポムネッコル記念館〕(釜山広域市東区凡一洞)
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▲記念館から左手の山に登っていくと、「涙岩」があり、山の上が「第一聖地」になっている
▲米陸軍発行による1946年作成の地図(クリックで拡大表示)。米軍が元にした戦前の
日本陸軍の地図があまり残っていないためか、残念なことに付近の山の等高線が正しく
描けていない。あるべき山がなかったり、ポムネッコルの谷も十分描かれていない。
出所:Pusan 1946 – Korea City Plans – U.S. Army Map Service
▲山の上にある「第一聖地」から眺めた釜山港-写真提供:清平成和サイト(左)/
1951年2月26日撮影された釜山にあった避難民キャンプ風景。背後の山の形から
見て凡一洞付近ではないかと推定される。標識に書かれた”COMP”は「無料で提
供」の意味。また、”Huney Bucket”は簡易トイレのこと。ハングルで「便所は
道」と書かれている。-写真提供:アメリカ国立公文書記録管理局(右)
▲Google Earthで見た釜山ポムネッコル全景(クリックで拡大表示)
▲1974年に撮影された釜山ポムネッコル全景(クリックで拡大表示)-記念館所蔵
▲1963年発行の米陸軍による釜山市周辺を含む全域の地図。
この時代には凡一洞まで市街地が広がっているのがわかる
『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.125~P.127より引用)
そうした中、凡一洞(ポミルドン)のボムネッコルに上がって小屋を建てました。ボムネッコルは共同墓地の近所なので、岩と谷間以外に何もない所です。谷間の上にも何もありません。斜めの崖で、そもそも自分の土地だと言えるような場所さえないので、まず斜面を水平に削って、その場所を固めて小屋の敷地を造りました。金元弼(キムウォンピル)と共に石を割り、土を掘って、砂利にして運びました。土と藁を混ぜて作った壁石で壁を積み、米軍部隊からもらったレーション箱(兵士の野戦食であるレーションを詰めた箱)の底を抜いて平らにして、屋根に被せて出来上がりです。部屋の床には黒のビニールを敷きました。
バラックでも、これほどのバラックはありませんでした。岩場に建てた家なので、部屋の真ん中に岩がぷくっと突き出ていました。その岩の後ろ側に置いた座り机と金元弼の画架が調度品のすべてでした。雨が降れば部屋の中で泉が噴き出します。座った場所のすぐそばで、水がちょろちょろと音を立てて流れていく、とてもロマンチックな部屋でした。雨漏りがし、水が流れる冷え冷えとした部屋で寝ると、起きたときに鼻水がたくさん出ます。そうであっても、わずか一坪でもそうやって安心して横になれる場所があるという事実が、限りなく幸せに思えました。神の御旨に向かって行く道でしたから、劣悪な環境の中でも胸には希望があふれていました。
金元弼が米軍基地に出勤するとき、私は山の下まで付いていき、夕方仕事を終えて戻ってくるときは迎えに出ます。それ以外の時間は眠らずに鉛筆を削り、机に座って『原理原本』を書きました。米の甕に米はなくても、部屋に鉛筆はいっぱいありました。金元弼は、私が執筆に専念できるように、横にいて物心両面から私を助けてくれました。一日中働いてきて疲れているはずなのに、「先生、先生!」と言っては私に付いて回ります。もともと寝不足な私が便所でよく眠ることを知ってからは、便所まで付いてくるほどでした。それだけではありません。
「先生が本をお書きになるのを、少しでもお手伝いさせてください」と言って、私の鉛筆代を稼ぐために、新しい仕事まで始めたのです。それが米軍兵士の注文に応じて肖像画を描く仕事でした。当時、米軍兵士の間では、故国に帰る前に妻や愛人の肖像画を描いておくことが流行していました。図画用紙ぐらいの大きさの画布に糊を塗って、木の枠に付けて絵を描きます。売値は一枚四ドルでした。
金元弼のそのような真心がありがたくて、彼が絵を描くときは、私も横にいて黙々と助けました。彼が米軍基地に仕事に出かけると、画布にぱりっと糊を含ませ、木を切って枠を作ります。退勤してくるまでに、筆をすべて洗い、必要な絵の具を買っておきました。そうしてお枚か二枚だけだったのが、いつの間にか有名になって、寝る間も惜しんで二十枚、三十枚と描きました。
『真の御父母様の生涯路程2』
「第五節 釜山避難時代」より引用
二 ポムネッコルの土壁の家から再出発準備 (一九五一・八~一九五三・一)
<土壁の家の建築(一九五一・八) 釜山市東区凡四洞一五一三番地>
韓国の地でも釜山凡一洞、そこに、それこそ穴を掘って家を建て、一人で第二の出発を準備しました。
そこは共同墓地の近くで、石だらけの谷のほかには、何もありませんでした。そのような所に、先生は豚小屋のような仮設の建物を建てました。
凡一洞の谷に、私が荷おけをかついで砂利石を運び、土をこねて家を建てた思い出は歳月が過ぎても、なお鮮やかによみがえるのです。
釜山で一番外れでした。家を建てるにはシャベルが必要でしょう。シャベルを借りようとしても、相手が貸してくれなければならないでしょう。「避難民たちは金になるものは全部売ってしまうので貸してあげない」というのです。そしてシャベルがあっても貸してくれないのです、台所に持っていって隠してしまうのです。それで、仕方なく十能(注:炭火を盛って運ぶ道具)でしたのです。
それが、これくらいのものですが、ここがこのように割れて落ちて、ここは取れてしまったのです。そのようなものを使ってしたのです。本来は、つるはしが必要でしょう。しかし、そのようなもの(十能)を使って凡一洞の地をならしたのです。また、れんがを作る機械が必要でしょう。それで米軍の部隊に行くと配給箱があるでしょう。それを持ってきて開いて広げて、土を入れるのです。土がとてもたくさん要るのです。これくらいの土を持ってきて、こねてみてもひと塊にしかなりません。
誰が土地をくれますか。ですから山すその急斜面を削って、そこを横に切り開いて、土地をつくるのです。雨が降れば、その部屋から泉がわき出ます。ですから、地面を一尺くらい掘って、石を持ってきて水門をつくるのです。水門をつくって、その次に、その上にオンドルを敷きました。そのオンドルの下は水が流れるのです。そのような有名な家です。
壁と屋根を泥と岩で建てたとてもみすぼらしい住居でした。先生には家を建てるほどの土地が一坪もありませんでした。山すその急斜面に小屋のようなものを建てたのです。使い古しの箱で臨時の屋根を作りました
<懐かしい一間の部屋>
小さな部屋でも、そのような小さな部屋はないでしょう。岩の所に家だといって、造っておいたのです。入ってみれば岩が一つあって、それから小さなテーブルが一つあって、それから絵を描くカンバス、その二種類しかないのです。それがなんの宝物ですか。それは悲惨なものです。
けれども、その中で寝る時も、この地上のいかなる宮中で栄光を享受して生きる人よりも、神様の息子として孝行ができる、一番の道を歩んでいました。そして、誰もまねることのできない、深い内心の基準に到達することが願いでした。
私は、いくら軒下や穴ぐらの家にいたとしても、「私が神様に侍るのに、まだ精誠が足りない」と考えました。
また、立冬の季節が訪れてくると、不便なことがたくさんあります。雨が降るし、風は吹くし、風邪ぎみにはなるし、冷たい部屋で鼻水がずるずる出るし、果たすべき責任はたくさんあるし、腹は減るし、着る物はないのです。その時が、一番不便な時なのです。しかし、その時に希望を失うなというのです。この道は、私たちの師が歩んだ道であり、先生がみ旨をつかんで行く道なので、皆さんも、心情の一致点をそのような基準で探し求めていかなければならないのです。
ある時は、部屋一間がどんなに慕わしかったことか知れません。先生は世界の誰よりも部屋一間を慕わしく思った人なのです。「ほとんど倒れかけの納屋のような部屋の一間であっても、誰より愛することができる部屋として、王宮以上の貴い部屋として私が住むのだ」と思いながら、慕わしく思った人なのです。また、とても小さな土地一かけらでも慕わしく思ったのです。「神様が選んだ私の地で、私は精誠を込めよう。サタン世界の地で精誠を込めるのは嫌だ」と思ったのです。それで、どんなに精誠を込めたか知れません。
* *
心情的な基準が問題なのです。心情は恋しさが途切れないのです。先生は金元弼を連れてポムネッコルで生活した時が良かったと思っています。その時が良い時であったのです。
私がその時、原理原本の草稿を書く時だったのです。それゆえ、その時のその印象は今も忘れません。その金元弼が先生に対して有り難くしてくれたこと、避難してきて孤独で悲しくて、共に月を眺めながら暮らしたこと、その時の印象は除き去ることができないほどに残っているのです。その時、金元弼が会社に行って家に帰ってくることが、自分の恋人が訪ねてくることよりも、もっと楽しかったのです。
* *
<米軍たちの肖像画を描く副業>
私が凡一洞で住んでいた家、テーブルはこのくらいで、悲惨なものでした。
そこで、米軍部隊の兵士たちのために肖像画を描きました。金元弼は絵を描くのが上手なのです。その時、これくらいの布一枚に枠を組んで描きました。糊を煮て作って、布にきれいに塗るとピンと張るのです。その当時、一枚描けば四ドルになりました。
その部隊が何の部隊かと言うと、故郷に帰る部隊です。アメリカ兵は一年半とか二年半ぐらいで交代して故郷に帰るのですが、そこが最後の部隊なのです。その部隊から自分の故郷に帰るのですから、お土産が必要なのです。お土産として持っていけるような物が何かなければならないでしょう。それで、「妻の肖像画を描いてあげよう」と言うのです。四ドルなら安いでしょう。
それをどう早く描くかが課題です。最初は一、二枚持ってきました。しかし、お金が限りなく必要なので、「一日に二、三十枚もらって来なさい」と言ったのです。普通、彼らはそこに一週間とどまって行きます。それでたくさん注文をもらってきて、ある日などは三十枚近く描いたときもありました。先生がしわを全部広げておくのです。そうすると、金元弼は4Bの鉛筆で額に入っているのと同じサイズで、細かく線を引くのです。
線を引いておけば、目はどこにとか、その線に従って描けばいいのです。いかに早いことか、何倍も早いのです。唇もさっと描いておけば、赤く塗るのは私がします。頭もさっと描いておけば、頭の色は私が塗ってあげます。そうしながら全部覚えるです。
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