Google Mapで訪ねる主の路程〔特別編〕-ついに見つかった!興南収容所の写真


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〔特別編〕-ついに見つかった!興南収容所の写真

その後の考察の結果、この興徳里(フンドクニ)にあった日本統治時代からの戦争俘虜収容所は、文先生が囚人として収容された時点では、本宮(ポングン)特別労務者収容所だったのではないかと今では考えています。囚人労働者を働かせる本宮化学工場群が近くにあったからです。(最後尾の地図参照)。徳里(トンニ)特別労務者収容所の写真がもし存在するのであれば、やはり探さなくてはならないと考えています。(2022年6月筆者記)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えて行かれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。連載第16回では文鮮明先生が1948年5月から1950年10月にかけて、興南(フンナム)で過ごした 興南収容所と興南窒素肥料工場の強制労働 をお伝えしましたが、その後の調査で興南収容所の写真をついに見つけることができました。今回は特別編として、「特別編-ついに見つかった!興南収容所の写真」のレポートをお伝えします。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ推測したものであり、個人による研究として公表するものです。教会本部および韓国歴史編纂本部の公式見解ではありません。個人レベルでの調査のため、確証と裏付けがすべて得られているとは限らないことをご了承いただき参考情報としてご覧ください。
なお、この調査結果をもとに、教会本部や関係団体、情報提供者に質問・意見をむやみに寄せることは迷惑行為につながりかねませんので、おやめください。記事本来の趣旨は、『平和を愛する世界人として』(文鮮明自叙伝)に登場するゆかりの場所を“バーチャル”で訪ね、読後の思いを深めることにあります。記事本来の趣旨をご理解くださるようお願いします。

これが興南(フンナム)収容所の全景写真 (※末尾に後述した内容を参照のこと)

文鮮明先生が1948年5月に収容された興南(フンナム)収容所は、実は北朝鮮が作ったものでも、ソ連が作ったものでもありませんでした。興南収容所は、第二次世界大戦中1943年9月に日本軍が作った戦争捕虜収容所でした。説明は後回しにし、まずは全景写真を見てください。

北北西方向に撮った興南収容所の全景写真
▲南側の山から北北西方向に撮った興南収容所の全景写真。撮影時期は
1945年9月中頃。英国人女性の方の写真提供による。(クリックで拡大表示)

北西方向に撮った興南収容所の全景写真
▲南側の高台から北西方向に撮った興南収容所の全景写真。
撮影時期・写真提供は同じ。(クリックで拡大表示)

続いて収容所内部の写真です。

興南収容所内部の写真 興南収容所内部の写真
▲興南収容所内部と帰国直前の連合国捕虜のようす。
撮影時期・写真提供は同じ。(クリックで拡大表示)

1945年9月、収容所を取り巻く環境が大きく変わった日の写真です。

収容されていた連合国捕虜が母国へ帰国する直前のようす 興南収容所から西方にある本宮化学工場を撮った写真
▲収容されていた連合国捕虜が母国へ帰国する直前のようす〔左)
興南収容所から西方にある本宮化学工場を撮った写真〔右〕
撮影時期は1945年9月中頃。写真提供は同じ。(クリックで拡大表示)

いずれの写真も英国人女性の方の提供によるものです。実はこの方の祖父が、第二次世界大戦に従軍し、シンガポール陥落のあと、日本軍によって戦争捕虜とされ、1943年9月に作られた“興南収容所”に収容されていました。祖父の方は、自身のアルバムに戦争時代の写真を保管しながら、家族に何も語ることなく、2001年に他界されたそうです。孫である英国人女性の方は、収容所や戦争についての情報を得るために、自分のサイトに写真を公開し、世界中の人たちから、戦争当時の情報を寄せてもらっているそうです。

なお、“興南収容所”の正式名は、当時の日本が作った「戦争俘虜(ふりょ)収容所」のひとつであり「朝鮮収容所 第一派遣所」です。設置場所は興南(こうなん)、捕虜の使役先は朝鮮窒素肥料興南工場でした。当記事では、戦前の時期は日本語読みでこうなん、解放後は韓国語読みでフンナムとして扱います。

“興南収容所”の写真発見に至るまで(1)-その場所はどこか

興南工場(興南窒素肥料工場)は、写真も場所もはっきりわかっています。それに比べて“興南収容所”の方は、写真もなければ、場所も明確ではありませんでした。自叙伝では、工場から10里(韓国の1里は約392.7m)と記述されており、約4km弱だったことが証言によって明らかになっていただけでした。

GooglMapで興南工場の周囲4kmをただ眺めるだけでは、見つかるはずもありません。探す拠り所にしたのが WikiMapia(ウィキマピア)でした。WikiMapiaは、特に北朝鮮エリアに対し、脱北者や軍事専門家などが信頼性の高い情報を元に地図上にマーキングしています。(くわしくは 第16回 興南収容所と興南窒素肥料工場の強制労働 を参照)

果たして、興南工場の西方約4km弱の位置に「興南収容所」がたしかにマーキングされてありました。しかしながら、誰がマーキングしたかはわかりませんし、もし信頼がおけたとしても、これが文先生が入った収容所なのか、すぐ判断はできません。判断材料にしたのは、『真の御父母様の生涯路程』で収容所の地名を冠した「興南徳里労務者収容所」と見出しに書かれている地名でした。現在の収容所のある場所を確認し、戦前の日本の地図でその場所の地名を確認したのです。

興南工場の西方4km弱にあった「興南収容所」
▲興南工場の西方4km弱にマーキングされていた「興南収容所」(クリックで拡大表示)

マーキングされていた現在の「興南収容所」
▲マーキングされていた現在の「興南収容所」(クリックで拡大表示)

興南収容所が作られる「興徳里(フンドクニ)」の地名
▲1935年参謀本部陸地測量部発行「咸興」地図より。後に興南収容所が作ら
れる「興徳里(フンドクニ)」の地名を確認。収容所敷地を赤で描いてみた。
左側にある大きな赤線の枠は本宮の化学工場敷地。(クリックで拡大表示)

同地図の「興徳里(フンドクニ)」ズームアップ
▲同地図の「興徳里(フンドクニ)」ズームアップ(クリックで拡大表示)

1953年米陸軍発行の「咸興・興南」付近の地図より
▲1953年米陸軍発行の「咸興・興南」付近の地図より。英語でも
“Hundong-ni”〔フンドクニ〕と表記されている。(クリックで拡大表示)

“興南収容所”の写真発見に至るまで(2)-収容所はいったい誰が作ったのか

興南収容所は、いったい誰が何のために作ったのか、素朴な疑問をもう一度投げかけてみました。これまで、文鮮明先生の生涯を学んできた多くの食口が、収容所は北朝鮮が作ったと思い込んでいたふしがあります。しかし、よく考えれば、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の建国は、1948年9月です。

1945年8月のソ連による北朝鮮への侵攻文鮮明先生が本宮収容所に収容されたのが同年5月、興南収容所に移されたのが同年6月と記録されています。その頃は、正確にはソ連軍政の時期でした。ソ連は1945年8月の第二次世界大戦が終わる直前に満州・北朝鮮に進軍し、興南を含む38度線以北を占領していたのです。

反乱や暴動を取り締まりながら北の支配もままならないうちに、建国前の北朝鮮が収容所を建設できたでしょうか。そんな余裕はまずなかったことでしょう。では、ソ連が収容所を建設したのでしょうか? 答えは否でした。ソ連が占領したとき、戦前の日本が作っていたあらゆるものをそのまま利用・流用したのです。興南肥料工場は巨大なインフラですから、そのまま活用しました。そして収容所も同様だったのです。

興南収容所は、第二次世界大戦の最中、日本軍が1943年9月に戦争捕虜収容所(当時の呼び方は「戦争俘虜収容所」)として興南に建設した史料が出てきたのです。史料によると、連合国の戦争捕虜がここに収容され、興南肥料工場の使役にあたっていたことがわかりました。

第二次世界大戦の戦争捕虜を研究している「POW研究会」によると、日本軍が外地に作った「戦争俘虜(ふりょ)収容所」の一つ「朝鮮収容所 第一派遣所」が興南に作られていたことがまとめられていました。(くわしくはPOW研究会|日本国外の捕虜収容所を参照。POWは「Prison of War=戦争捕虜」を意味する略語。)

この情報の原典である『十五年戦争重要文献シリーズ第8集』(茶園義男著、不二出版)を国立国会図書館で閲覧したところ、もう少しくわしく記載されていました。

それによると、興南収容所=朝鮮俘虜収容所は、1943年9月13日に日本軍により建設。正式名称は「朝鮮俘虜収容所 第一派遣所」。第二次世界大戦が終わる1945年8月15日まで戦争捕虜収容所として、連合国の兵士が捕虜として収容されており、捕虜は興南窒素肥料工場での労働使役をさせていた記録がありました。さらに収容所は終戦後に「ソ連接収」(ソ連に接収された)の記録もありました。

また、記録上の捕虜引き渡し年月日は「1945年8月28日以降」としており、連合国捕虜の国別内訳は次のように記録されていました。イギリス兵士が最も多く、しかも英連邦の国の兵士ばかりです。

イギリス 300名/カナダ 1名/オーストラリア 52名/その他 1名/合計 354名

今回、発見された興南収容所の写真撮影日は、1945年9月中頃とされています。その日、捕虜は解放され、母国から迎えにきた連合国の将校たちに連れられて本国へ帰ったはずですが、日本側の戦争捕虜収容所に関する記録と、写真が語る情報との間に、基本的な食い違いはありません。

ここで、第二次世界大戦-南北分断-朝鮮戦争(韓国動乱)と続いた歴史と、興南収容所の位置づけを図解にしてみました。戦争捕虜収容所だった興南収容所は、ソ連軍政下でそのまま強制収容所として転用されました。興南収容所が写真撮影された1945年9月は、文鮮明先生が収容された1948年6月よりさかのぼること、2年9ヶ月です。

興南収容所の位置づけと歴史の図解
▲興南収容所の位置づけと歴史の図解(クリックで拡大表示)

図の中には、ソ連による日本人の「シベリア抑留」も興南収容所が使われた歴史を盛り込みました。実はシベリア抑留を語るとき興南が舞台としてたびたび登場します。日本人がシベリア抑留されたときに、最初に興南収容所に入れられたり、シベリアから転々と移されて興南に入れられたり、あるいは日本帰国の直前に興南に収容されていた人たちの手記・証言がたくさん残っています。1945年から1948年にかけて、多くの日本人が興南収容所を経験している事実がわかっています。

なお、興南収容所は、第二次世界大戦まで、原理講論で言う「サタン側のエバ国」であった軍国主義の日本が建設・管理し、解放後に共産軍政下のソ連の手に移り、秘密主義のカーテンで囲まれた共産主義国家、北朝鮮の手に移りました。考えれば、仮に興南収容所の写真が撮られていても、世の中に出る隙は、まったくなかったことがわかります。自由世界に公開することが可能な収容所の写真は、連合国捕虜が解放されたこの時しかなかったと思われます。

興南収容所には、第二次世界大戦時の「神側のエバ国」であったイギリスの兵士が最も多く収容されていたことになりますが、写真をサイトに投稿していたのは、イギリスの方でした。そして、今「神側の母国」になった日本との因縁で見つけられました。文先生が収容されていた興南収容所の写真をめぐり、きっと歴史の“糸”でつながっているのでしょう。

今回発見された写真は、興南収容所の経験者による証言など、裏付け作業がまだまだ必要です。歴史編纂委員会や研究者の方に、今後の検証をゆだねたいと思います。

興徳里にあった収容所は、下記の本宮特別労務者収容所の考察でもふれたように、実は本宮(ポングン)特別労務者収容所と呼ばれていたのではないかと考えています。囚人労働者を働かせる本宮化学工場群が近くにあったからです。しかしそれを裏付ける確証は今のところ得られていません。(2022年6月筆者記)

本宮特別労務者収容所の考察と興徳里の収容所の位置
本宮の町と本宮化学工場群と興徳里(クリックで拡大表示)
本宮の町と本宮化学工場群と興徳里(クリックで拡大表示)
地図左上が本宮(ポングン)の町、少し離れた右下のAが収容所位置。Bが本宮化学工場群。町とは少し離れてはいるもののこの興徳里にあった収容所が囚人労働者を働かせる本宮化学工場群に近いことから、実は本宮特別労務者収容所と呼ばれていたのではないか。(上)1935年陸軍陸地測量部・朝鮮総督府発行の地図/(下)「HUNGNAM」U.S.Army MapService 1945年より(それぞれクリックで拡大表示) up!

ところで、徳里(トンニ)の集落は実際に興南肥料工場の北2.5Kmの位置にあることがその後確認されました。「徳里特別労務者収容所」は教会史で言われている通りであり、おそらく地名の間違いはなく正しいと今では考えています。(2022年6月筆者記)

徳里特別労務者収容所の考察と徳里の位置
興南肥料工場の北2Km弱の位置にある徳里の集落
興南肥料工場の北2.5Kmの位置に徳里(トンニ)の集落がある。工場からの距離は4kmもなく、やや近いものの徳里特別労務者収容所はこの地域にあったに違いない。1933年陸軍陸地測量部・朝鮮総督府発行の地図より up!

興南窒素肥料工場と2つの収容所位置
興南窒素肥料工場と2つの収容所位置(クリックで拡大表示)
興南窒素肥料工場と2つの収容所の推定位置、および91年の会談場所麻田主席公館の位置-1933年陸軍陸地測量部・朝鮮総督府発行の地図より(クリックで拡大表示) up!


〔お断り〕
・写真掲載にあたっては、写真提供者の英国人女性の方の使用許諾を得ています。お名前は伏せさせていただきました。そのため、当サイトからの無断転載を一切禁じます。
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Hog Wild号撃墜事件とは
図の中でふれているHog Wild号撃墜事件の概要にふれておきます。終戦直後に興南を舞台にして、Hog Wild号撃墜事件が米ソの間で起きています。1945年8月29日、北の領域の写真偵察任務にあたっていた、米軍のB29爆撃機 Hog Wild 号が、ソ連戦闘機によって攻撃、墜落させられた事件が発生しました。米軍乗組員13名がソ連軍によって捕らえられ、他の連合国捕虜といっしょに16日間、興南収容所で過ごさせられた事件でした。米軍最高司令官のマッカーサー元帥は当然のこと強く抗議、1945年9月16日、ソ連は謝罪、1945年9月中頃、解放された捕虜と共に、本国に帰ることができたという事件です。米ソ冷戦の始まりのような象徴的な事件でしたが、このHog Wild号撃墜事件を扱うサイトでも、米軍撮影による興南収容所の写真が掲載されています。(参考サイト)The Flight of Hog Wild


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