Google Mapで訪ねる主の路程(1)-定州の生家


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第1回-定州の生家
ご生誕(1920年陰暦1月6日)~ご幼少時

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第1回は文鮮明先生のお生まれになった定州の生家です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に研究・推測したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また統一教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

定州の生家 定州の生家
▲定州の生家と背後に見える猫頭山(ミョドウサン)

定州にある文鮮明先生の生家(現・平安北道定州市)(当時・平安北道定州郡徳達面)


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文先生の生家が記載された1919年発行「定州」地図が出てきた new!

1919年「定州」地図から見た文先生の生家の周辺
▲1919年「定州」地図から見た文先生の生家の周辺(クリックで拡大表示)
「納清亭・平安北道亀城郡・定州郡」1919年2月〔陸地測量部、朝鮮総督府発行〕

文鮮明先生のお生まれになった生家のある“平安北道定州郡徳彦面”(地図発行当時は徳達面)周辺の地図が見つかりました。地図の発行年月は1919年2月です。これは文鮮明先生が再臨主として生まれる前年、柳寛順(ユグァンスン)烈士が活躍した「三・一独立運動」が起きる直前のものです。
地図で生家のある場所がわかるでしょうか。クリックして拡大表示する地図内に赤い矢印マークを表示するようにしました。

1919年「定州」地図より平安北道定州郡徳達面周辺
▲1919年「定州」地図より平安北道定州郡徳達面周辺(クリックで拡大表示)
「納清亭・平安北道亀城郡・定州郡」1919年2月+「雲田洞・平安北道
博川郡・定州郡」1919年1月〔陸地測量部、朝鮮総督府発行〕

同じ地図を周辺まで広げてみたのが上の地図です。徳達面(トクタルミョン)の地名が描かれています。徳達面(トクタルミョン)の地名は、「生涯路程」の中にも書かれているように、文先生自身が「徳彦面(トゴンミョン)」になる前の元々の地名であったことについて説明しています。この地図では切れていますが、東に徳星洞(トクソンドン)の地名も確認できました。
地図右上にある山が猫頭山(ミョドウサン)、山の麓には徳興洞(トクフンドン)の地名が書かれており、教会のマークがしっかりと描かれています。自叙伝で述べられている通り、文鮮明先生の一家がそろって通っていた徳興(トクフン)長老教会だと思われます。また、猫頭山の標高は309.7m、「ミョツーサン」とふりがなが振られているのが印象的です。
なお、日本統治時代の朝鮮半島では、行政府である朝鮮総督府が作成する地図についても、戦前戦後と変わらない日本の地図行政がそのまま生きています。細密さが要求される主要都市部は2万5千分の1地図が描かれ、農村部や周辺部では全土を5万分の1の地図で網羅していくという制度です。この地図は5万分の1のもので、2つを合わせたものです。定州付近の地図は、国立国会図書館に奇跡的に残っていました。

戦前の朝鮮の田園風景 書堂=寺小屋の風景
▲戦前の朝鮮の田園風景(左)/書堂=寺小屋の風景(右)

戦前の絵はがきから、定州のような田舎をイメージできる戦前の朝鮮の風景を選んでみました。自叙伝に述べられている文先生が9歳から通ったという書堂(寺小屋)の風景も探してみました。こんな風景の中を少年・文先生は過ごされていたのでしょう。

「書堂」についての統計資料
▲1939年発行の『朝鮮諸学校一覧』より。「書堂」についての全13道における統計資料。
平安北道は、5300近くの全書堂数のうち16%、全生徒数17万2千人のうち20%を占める。
書堂を利用した幼児・初等教育について平安北道がそのメッカだったことがよくわかる。

WikiMapiaにユーザーがRev.Moonの生家と書き込んだ情報
WikiMapiaにユーザーがRev.Moonの生家と書き込んだ情報


『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.20~P.22,P.58~P.59より引用)

私は平安北道定州郡徳彦面(トゴンミョン)上思里(サンサリ)二二二一番地で、父は南平文氏の文慶裕(ムンキョンエ)、母は延安金氏の金慶継(キムキョンゲ)の次男として生まれました。三・一独立運動が起こった翌年の一九二〇年陰暦一月六日が、私が生まれた日です。

上思里(サンサリ)には曾祖父の代に引っ越してきたそうです。数千石の農業に直接従事して、独力で暮らしを立てて家門を起こした曾祖父は、酒もたばこも口にせず、そのお金でよその人にご飯一杯でも多く食べさせようとし、そうすることに生き甲斐を感じる人でした。「八道江山(全国)の人に食事を振る舞えば、八道江山から祝福が集まる」--これが亡くなる際に遺した言葉です。そんなわけで、わが家の奥の間はいつもたくさんの人でごった返していました。「どこそこの村の文氏の家に行けば、ただでご飯を食べさせてくれる」と村の外にまで知れ渡っていたのです。母はやって来る人たちのつらい世話をてきぱきとしながら、不平を一度も言いませんでした。

休む間もなく熱心に働いた曾祖父は、暇ができると草鮭を編んで市場に出して売ったり、年を取ってからは「後代にわが子孫が良くなるようにしてください」と祈りながら、アヒルを数匹買っては放してやったりしました。また、奥の間に漢文の先生を招いて、近所の若者たちに文字を無料で教えるようにしました。そこで村人たちは、曾祖父に「善玉」という号を付けて、わが家を「福を受ける家」と呼びました。

しかしながら、曾祖父が亡くなって私が成長する頃には、豊かだった財産はすべてなくなり、ただ幾匙(さじ)かのわずかなご飯を食べて暮らす程度になりました。それでも、人に食事を振る舞う家風だけは相変わらずで、家族が食べる分がなくても人を先に食べさせました。おかげで、私がよちよち歩きを始めて最初に学んだことが、まさしく人にご飯を食べさせるということでした。

日本占領期の頃、満州に避難する人々が通った町が平安北道の宣川(ソンチョン)です。わが家はちょうど宣川に行く一級道路(幹線道路)の近くにありました。家も土地も日本人に奪われて、生きる手立てを求めて満州に向かった避難民が、わが家の前を通り過ぎていきました。母は八道(李氏朝鮮時代、全国を威鏡道、平安道、江原道、黄海道、京畿道、忠清道、慶尚道、全羅道の八道に区分したことに由来する言葉)の各地からやって来て家の前を通る人のために、いつでもご飯を作って食べさせました。乞食がご飯を恵んでくれと言ってきて、すぐにご飯を出さなければ、祖父がまず自分のお膳をさっと持って行きました..そのような家庭に生まれたせいか、私も生涯ご飯を食べさせる仕事に力を注いできました。私には、おなかを空かした人たちにご飯を食べさせる仕事が他のどんなことよりも貴く重要です。ご飯を食べる時、ご飯を食べられない人がそこにいれば、胸が痛く、喉が詰まって、スプーンを持つ手がそのまま止まってしまいます。

    ☆              ☆

私は人々の流れる涙をぬぐい、心の底に積もった悲しみを吹き払う人になりたかったのです。森の中に横になって鳥たちの歌声を聞くと、「あのさえずりみたいに、誰もが仲良く暮らせる世の中を築こう。一人一人の顔をかぐわしい花のように素晴らしくしてあげたい」という思いが自然と沸き上がってきました。一体どんな人になればそうできるのか、それはまだよく分かりませんでしたが、人々に幸福をもたらす者になろうという心だけは固まっていきました。

私が十歳の頃、牧師である潤國(ユンゴク)大叔父の影響で、私たち一家は全員キリスト教に改宗しました。次姉と兄の精神的な病が按手祈疇を通して治癒したことから、猫頭山(ミョドウサン)(標高三一〇メートル)のふもとにある徳興(トクフン)長老教会に入教し、熱心に信仰生活をしたのです。その時から、私は真面目に教会に通って、礼拝を一度も欠かしませんでした。礼拝時間に少しでも遅れると、あまりにも恥ずかしくて顔を上げることができませんでした。まだ子供なのに何を思ってそうしたかというと、私の心の中には、その時すでに神の存在がとても大きな位置を占めていたのです。そして、生と死や人生の苦しみと悲しみについて、深刻に悩む時間が増えていきました。
 
 
『真の御父母様の生涯路程 1』「第一章 真のお父様の誕生と内的準備」より

本来私が生まれた所は、平安北道定州郡徳達面(トクタルミョン)徳星洞です。定州郡の地方のある村で徳が達し、その次に徳星洞、徳が星のように輝くというのです。これがのちにどのようになったかといえば、徳彦面(トゴンミョン)、士人を表す彦の字です。士人の彦の字は、知識を表すのです。上思里、上を考える里に変わったというのです。徳がある星とはどういうことですか。それは主を象徴することではありませんか。それが徳彦面、上思里になったのです。全部発展してきたのです。それでは今後、どのようになるでしょうか。定州郡、それから統達面にならなければならないのです。それから何の里ですか。統一里です。そうしてこそ、心情圏がそこに連結されるのです。

    *              *

その一念をもって、今まで闘っているのです。きょうもそうであり、残った余生も、その目的を完成する時まで前進しなければならないのが、一つの使命だと思っています。今は緩衝地帯であるということを思うたびに、いつそこを過ぎていくのかと思うのです。韓国の歌の中にそのような歌があるので、その歌を一度歌ってみます。

 一、雲も泣いて越える、泣いて越えるあの山の麓
   その昔、私が暮らしていた故郷があったのだが、
   今は、どこの誰が暮らしているのか
   今は、どこの誰が暮らしているのか
   谷間の水が乾いて
   瑞々しい肥えた田に雑草が生えているなあ

 二、鳥も家を探す、家を探すあの山の麓
   その昔、私が暮らしていた故郷があったのだが、
   今は、どこの誰が暮らしているのか
   今は、どこの誰が暮らしているのか
   海には船だけが浮かんで
   漁師たちの歌声が消えて随分たつなあ

もう一度歌いましょうか。(アンコール!)

※この歌は愛唱歌「고향무정」(故郷無情)かと思われます。曲のメロディーが気になる方はリンクをどうぞ。

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