Google Mapで訪ねる主の路程(2)-五山学校と定州普通学校


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第2回-五山学校と定州普通学校
14歳(1934年)~15歳(1935年)~18歳(1938年)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第2回は、五山学校と定州普通学校です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

五山学校 1934年~1935年3月

五山学校(当時) 五山学校創設者 李昇薫
▲当時の五山学校と五山学校創設者 李昇薫(イ・スンフン)(1864~1930)

五山学校跡(現・平安北道定州市)〔※現在の用途は不明〕


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五山学校の描かれている「定州」地図を確認

1919年発行地図での五山学校
▲1919年の地図で描かれている五山学校。地名は益城洞(イクソンドン)とある。
京義線の線路は、五山学校のある丘陵の下をトンネルで貫通していることがわかる。
「雲田洞・平安北道博川郡・定州郡」1919年1月〔陸地測量部、朝鮮総督府発行〕

1911年発行地図での五山学校
▲それより前の1911年の地図で描かれている五山学校。付近一帯は五山面(オーサン
ミョン)とある。このとき京義線の線路は、五山学校のある丘陵を回り込み、切り通し
を通っていたことがうかがえる。「定州略図」1911年〔陸地測量部、朝鮮総督府発行〕

文鮮明先生の生家から五山学校までの約8kmの行程

文鮮明先生の生家から五山学校までの行程

文鮮明先生の生家から五山学校までの約8kmの行程(右 >)
沿道はのどかな里山風景がしのばれる(クリックで拡大表示)
「納清亭・平安北道亀城郡・定州郡」1919年2月+「雲田洞・平安
北道博川郡・定州郡」1919年1月〔陸地測量部、朝鮮総督府発行〕

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『朝鮮諸学校一覧』に掲載された五山小学校
▲『朝鮮諸学校一覧』(1939年発行)に掲載されている五山小学校。
平安北道に計3つの私立小学校があったことが見て取れる。当時の
五山小学校は6年制で学級数は6。3校とも教員はすべて韓国人。

※五山学校と李昇薫についてはウィキペディアの五山高等学校李昇薫の解説を参照。

定州公立普通学校 1935年4月~1938年3月25日

定州公立普通学校全校生(当時) 定州普通学校ではなく、北朝鮮になってから建てられた近くの学校
▲(左)当時の定州公立普通学校全校生/(右)文先生の生涯を紹介する映像などで使われる右側の
新しい学校は、定州公立普通学校ではなく、北朝鮮になってからすぐ近くに建てられた高校と思われる

定州公立普通学校の跡地(現・平安北道定州市)〔※現在の用途は不明〕


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▲下の1936年当時の地図から割り出した定州普通学校があったと推定される位置を
GoogleMap上にプロット。北側のすぐ後ろに高校と思われる大きな学校が現在建っている。

文先生が定州普通学校に在学していた時期の「定州」地図が出てきた

1936年 陸軍参謀本部陸地測量部発行「定州」地図
▲1936年 陸軍参謀本部 陸地測量部発行の「定州」地図。(クリックで拡大表示)

文鮮明先生の定州普通学校で学んだ期間は1935年4月~1938年3月25日ですから、1936年といえば、まさに文先生が在学中であった時期の地図です。定州普通学校は、定州の町中でも大きなエリアを占めていることがわかります。
この地図は1万分の1のもので、70年以上も前のものですが、戦前の朝鮮半島を統治していた日本にとって、当時、最高の軍事機密扱いでした。地図は国立国会図書館所蔵で誰でも閲覧可能です。こうした貴重な史料類が、まだまだ日本の随所に眠っていることでしょう。
なお、文鮮明先生の生家は、定州の町から東の方向約8kmの位置にあります。

1937年定州普通学校の教員名簿 1935年定州普通学校の教員名簿
▲『朝鮮総督府及所属官署職員録』(1937年8月発行)掲載の定州普通学校教員名簿(左)
/同(1935年発行)掲載の定州普通学校教員名簿(右)

文鮮明先生が定州普通学校で学んでいた期間の教員名簿。当時はそれぞれ「内地人」「鮮人」と呼ばれていた日本人教員と韓国人教員が混在しています。校長は、韓国人もいましたがほとんど日本人です。これらの先生のうち、少年だった文鮮明先生に手厳しく批判、論評された先生は誰だったのでしょう。あの世でくしゃみをしているかもしれません。

実は、『平和を愛する世界人として』文鮮明自叙伝 日本語増補版のP.354には、定州普通学校へ文先生が入ったクラスに新任教諭として赴任してきた金泰善先生の名前が登場します。自叙伝には「この学校で文先生のクラスを担当したのは、新しく赴任してきた若い金泰善先生でした」と記されています。この金泰善先生の名前を調べたところ、1937年(昭和12年)発行の「朝鮮総督府職員録」(左側の画像)には、金泰善先生のお名前がしっかり掲載されていました。赤線でマーキングしましたので確認してください。


『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.55~P.56より引用)

十四歳になった一九三四年、編入試験を受けて私立五山普通学校の三学年に入りました。入った時は人より遅れていましたが、勉強ができて五学年に飛び級しました。五山学校は家から二十里(約八キロメートル)も離れた所にあります。しかし、私は一日も休まず、毎日決まった時間に歩いて行きました。峠を越えると他の子供たちが待っていて、私が先に立ってサッサッサッと早足で歩いていくと、彼らは付いてくるのが大変そうでした。平安道の虎が出てくる恐ろしい山道を、そうやって歩いて通いました。

五山学校は独立運動家である李昇薫(イ・スンフン)先生が建てた民族学校です。日本語を教えないだけでなく、初めから日本語を使えないようにしました。しかし、私の考えは少し違っていて、敵を知ってこそ敵に勝つことができると考えました。それで、再び編入試験を受けて、今度は定州公立普通学校四学年に入りました。公立学校の授業はすべて日本語です。初登校の前夜、辛うじて片仮名と平仮名だけを覚えて登校しました。それでも、日本語が全然できなくて困り、一学年から四学年までの教科書を十五日以内に全部覚えました。そうやって初めて耳が通じたのです。

おかげで、普通学校を卒業する頃には、日本語を流暢に話せるようになっていました。卒業式の日、定州邑(邑は面の中で人口が多く商工業が盛んな地域を指し、日本では町にあたる)の主立った名士が皆、学校に集まってきました。私は志願して、彼らを前にして演説をしました。感謝の言葉を述べたのではありません。この先生はどうであり、あの先生はどうであり、学校制度にはこのような問題があって、この時代の指導者はこういう覚悟で臨むべきだ等々、批判的な演説を日本語で続けざまにやりました。

「日本人は一日も早く荷物をまとめて日本に帰りなさい。この地は、わが国の者たちが子々孫々にわたって生きていかなければならない先祖から受け継いだ遺産です!」

そういう演説を、警察署長、郡守、面長すべてが集まった前でやりました。潤國大叔父の魂を受け継いで、あえて誰も言えない言葉をぶつけたのです。聴衆がどんなに驚いたかしれません。演壇を降りる時に見てみたら、彼らの顔は灰色に曇り、呆然としていました。

問題はその後です。日本の警察は、その日から私を要注意人物としてマークし、私の行動をあれこれと監視し、うるさく付きまといました。後には、日本に留学しようとした際、警察署長が書類に判を押してくれなくて、ひどく苦労しました。日本に送るわけにはいかない要注意の青年として拒絶したのです。結局、警察署長と激しく争って、強く訴えた後になって、ようやく日本に渡って行くことができるようになりました。


『真の御父母様の生涯路程1』(第一節 真のお父様の誕生とその背景より)

<定州私立五山普通学校三年編入(一九三四)>

それで予備校に入って勉強して、その時で言えば普通学校に入ったのです。五山小学校、その時は五山普通学校です。その学校の三年に、編入試験を受けて入りました。そこで一年勉強しますが、熱心にしないわけにいかないでしょう。命懸けでしたところ、成績が良くて、五年に飛び級できる許可を得たのです。

私は、小学校には、二里の道を歩いて通ったのです。それは、どのくらいの距離でしょうか。八キロメートルです。八キロメートルを毎日のように歩いて通ったのです。それゆえに、中間くらいに住む子供たちは、私がきっちりその時間に通り過ぎるから、その時出てくれば絶対遅刻しません。みな科学的なのです。それで、ずーっと峠ごとに、子供たちが待っているのです。私は、道を本当に早く歩くのです。八キロメートルを一時間以内に、四十五分で行くのです。さささーと行くのです。そうするとあとからついてくるのが忙しいのです。

私にそのようなエピソードが多いのです。母と父が、学校に行きなさいと準備することなく、私が全部準備したのです。学校の校長先生のところで、口述試験を受けるのも私がみな交渉してしたのです。全部開拓したのです。

夕方くらいになれば、おなかもぺこぺこです。二里を行こうとすれば、かなりの道のりです。ある雨の日、仲間はみな行って私が一人残りました。その時に何を買って食べたのかというと、中華料理屋に入っていき、まんじゅうを買って食べたのです。その小豆まんじゅうがどれほどおいしかったか! その時は、五銭したのです。十五銭で三つ買って食べました。三つ食べるとおなかが一杯で、それ以上食べられません。お茶とその三つをもってそこに座り、少しずつ食べて時間を過ごしながら、雨がやむのを待つのです。そうして十一時くらいになると、何度も追い出されました(笑い)。

ですから、十一時を越えたら走るのです。峠を越えて……。その時は、狼も多く、虎も多かったのです。ある山中で誰かが捕まって食べられたという、そのような時でした。平安道には虎が多かったのです。そのような田舎道を走り回りながら、学校に通いました。今考えると、それはすべて訓練でした。

その時、訓練したので、先生は今でも道をきちんと歩けるのです。するするとです。おそらく、今でも皆さんはついてこれません。

<定州公立普通学校四年に転校(一九三五・四~一九三八・三・二五)>

過去、我が国(韓国)は、アジアの小さな半島の一国として、日本治下にあった悲惨な実情の国だったということを、皆さんはよく知っています。先生は少年時代を、大韓民国の自主的国家圏内で育つことができず、日本の圧制圏内で、日本の統治下で育ちました。二十五歳までそのように育ちました。ですから、徐々に世の中を知るようになって、若者として過ごすことができる、難しいすべての事情を測定できる、そのような重要な時期に、国のない民として育ったので、その時代が回想されます。

ところが、よく見てみると、五山小学校では日本語を話せないようにするのです。日本語を使えないようにします。皆さんが知っているように、三十三人(注・三・一運動の時、独立宣言書に署名した三十三人の民族代表)の中の一人とともに、日本の怨讐の立場で闘争した代表的な人である李昇薫氏が建てた学校であり、そのような学校の伝統があるために、日本語を話せないようにするのです。

私がよく考えてみると、問題は私たちが相手を知らなければならないということでした。相手を細密に知らなくては、戦おうにも対策を立てることができないという気がするのです。それで定州普通学校(注・公立普通学校)に、編入試験を受けて、四年に入りました。そこに入って、日本語を流暢に話すようになって卒業をしたのです。そのような過程を経ながら、信仰の道だとか、人生の根本問題だとか、難しいすべての問題を考えるようになったのです。

学校に行くようになれば、全部日本語を習わなければならなかったのです。カタカナ、ひらがなを勉強したことが、きのうのことのようです。一朝一夕にみな覚えてしまいました。そうしてから、雷のように一年、二年、三年、四年のすべての本をひたすらに読み、半月でみな覚えてしまいました。そうしてしまうと、耳で分かるようになったのです。

また私は最初に行って、絵を描いたものを貼り付けました。習いもしなかったのに、既に三等分して測定するのです。あの絵が、あの平原に、何等分の中に入っているなとぴったりつかみ出します。センターを中心として測定していくのです。この画用紙が三倍だから、三倍をぴったり定めて、センターを中心として、三倍に全部ちょんちょんちょんと点だけ打てば、絵がみな描かれるのです。

先生が幼かった時、ノートを使うときには、線が引かれた部分から使うのでなく、一番上から使いました。ある時は、一枚に二度ずつ書いたりもしました。そうすると、ノート一冊にたくさん書くことができるのです。物を惜しんで使わなければなりません。

そして、本を読めば、その後ろ側まで見えたというのです。昔、小学生の時……。日本語国語読本というものを五、六年の時は二巻ずつ学んだのです。一巻が百八十ページなのですが、それを一晩ですべて覚えてしまいました。人間とは、そのように恐ろしいものなのです。

皆さん、灯火を知っていますか。油に火をともして勉強したことが、きのうのことのようです。二時、三時、夜を明かして勉強すれば、母と父は、「もう寝なさい。体を壊してはいけない」と言いました。いつもそうだったのです。その時、私が一番友達としたのは夜の虫たちでした。夏には、夜の虫を友達としたのです。このようにでんと座って、二時、三時までいたのです。静かな夜に……。田舎の夜は、本当に静かなのです。虫たちが月夜に鳴くその声は、とても神秘的なのです。山をさっと歩き回っていたことが、きのうのことのようです。

<卒業式の時に特別所見を発表(一九三八・三・二五 第二十九回卒業)>

今も忘れられないのは、その定州普通学校での卒業式の時のことです。その時は邑だったのですが、その定州邑の有志たちや多くの父兄と先生が卒業式にお祝いのために集まりました。その卒業式では、校長の訓示があって、その次にお客さんの祝辞がありましたが、その次に私が志願してその壇上に立ち、日本に対して反駁したことが、今でも忘れられません。人々がたくさん集まったその前で、そうしたことが、今も記憶に残っています。そのようなことを見れば、少年時代の気質が、普通でなかったようです。

先生は、そのような場を望んでいました。それで、堂々と壇上に上がりました。そして、言いたいことがあると言いながら、少年時代の教育に対する批判と今までの学校の先生に対する批判をすべて言ってしまいました。「この先生はこのような性質があります。歴史の先生はこのような性格で、これこれこのような思考をしているので、このような結果にしかなりません」と言い、先生たちを批判しました。そして、時代的な批判もし、また、「この時代の責任者は、これこれこのような覚悟をもたなければなりません」と、一時間近く話したのですが、それが大問題になりました。学校を卒業する学生が、そのようなことを言うとは誰も考えることができませんでした。それで先生は、その時からレッテルが貼られたのです。警察から目星をつけられるようになりました。


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