11月11日(天暦9月28日)礼拝テーマと内容


11月11日(天暦9月28日)礼拝テーマと内容

■説教内容 『本然の世界』  (鈴木和章・教区副教会長)

・ビデオ上映

清平のツツジを鑑賞しながら『春の乙女』を歌う真の父母様

・「本然の世界」を論じるとき、今までは世の中にあるいかなる内容を見ても、“本然”を見出せるものは何もなかった。人間社会のどのようなものにも、常に偽り、常に不義があり、“本然”は見出せない。
・以前、赴任した先の青森では、少し足を伸ばすと八甲田山の連峰を見に行くことができた。
八甲田山連峰の紅葉・そこでは360度の大パノラマで美しい紅葉が味わえる。東北地方の紅葉といえば、十和田湖が有名だが、この八甲田山連峰の紅葉もまったく引けを取らない。雄大なパノラマを目にするだけで、そこにあるのはただ「本然の世界」。不義や偽りをひとかけらも見つけることができない。
・大自然の中に見出せる「本然の世界」には、共生・共栄という言葉が自然にイメージされる。自然の調和を感じたとき、共鳴が生まれ、小さな悩みなど吹き飛んでしまう。
・「本然の世界」は、人間の世界にはないが、自然の中には当たり前のようにある。

文先生最後の祈祷・9月3日(天暦7月17日)に聖和された文先生の最後の祈祷内容であった「完成(ワンソン)」の意味するところをもう一度考えてみたい。
・世の中には今でも不義や不正がはびこっている。これは誰も否定できない事実。
・アジアの国際情勢に目を転じれば、今、中国の覇権主義が大きな問題となっている。
文先生最後の祈祷・文先生は、以前から中国の覇権主義に対して、指摘・警告されていたが、今では世間で普通に危惧されるようになった。
・中国国内の情勢も不穏な動きが続いている。チベットでも暴動が起き、僧侶や一般市民の抗議の焼身自殺が相次いでいるという。
・そのような混迷と混乱の時代にある今の状況であるにもかかわらず、文先生の最後の祈祷は「完成(ワンソン)」されたと祈られた。
・「本然」という概念は仏教には一行もない。またキリスト教はパラダイスについてふれることはあるものの、そこは「本然の世界」とはほど遠い。
・文先生が残してくださった「本然」の意味を考えることはとても重要。
・私自身の歩みを考えると、私は18歳でみ言を聞き、その時からメシアを知って歩んできた。以来、日本国内や世界を点々とし、教会の活動にいそしんできた身。岩手県にある実家にはほとんど帰ることがなかったが、ごく最近、疎遠にしていた兄から手紙が届いた。法事(法要)の案内だった。
・法事に参加すると、出会う親戚がほとんど初対面。親戚の中には普通に結婚して家庭を持っている人、子どもがおらず養子をもらった人など、さまざまな境遇の人たちがいた。
・自分自身のことを考えてみれば、み言に出会い、教会の仕事に身を捧げ、家族の因縁を断ち切り、すべてを捨てたようにして、生きてきた。すべてを捨てたつもりで生きてきたが、祝福結婚で妻が与えられ、今では四人の子が与えられた。これは考えてみればすごいこと。
・自分がすべてのものを捨てて、やりたいことを犠牲にして生きてきたその結果が、自分の思いとは裏腹に、神様からそのように家庭と家族を与えられた。
・この時代を生きていくということは「蕩減」を理解できなければいけないと思う。
・すべてを捨てて死を決意して臨んだ信仰を立てて生きてきた道。それでもこのような貴重な家族や愛が与えられた。
・自分の親、祖父母でさえ、家庭の平安を願っても、思い通りにはいかなかった。
・それらを考えると、先祖の功績が、今に至る多くの恵みや導きを与えてくれたとも思う。
・親族たちを見回したとき、まれに信仰心のある人がいたとしても、せいぜい神様を信じるか敬う程度。ほとんどの人が、神様のことを知っているわけではない。
・しかし、教会に集まってきている皆さんは知っている。神様はどのような神様か? その答えは「神様は父母だ」ということ。答えを知っていることは何よりも尊い。
・文先生が聖和されて以降、神様は父母であるというこれまでのみ言の内容が強まっただけでなく、「夜の神様」のみ言にあるように、神様と真の父母様との完全に重なる姿が如実に現れるようになってきている。
・私には22歳になる長男がいるが、決して若者向けの話がされているわけではない一般礼拝に参加しても、静かに聞いている。考えてみれば、二世は最初から自分の意志で生まれてきたわけでなく、信仰の道を行くことになるのも葛藤があるのが普通だと思う。しかし、ちゃんとみ言を学び、神様と真の父母を信じている。それを考えると、本当に尊い内容だと実感する。
・み言で訓読する内容から私たちが知ることは、神様は父母だということ。しかし聖書には「父なる神」とは書かれていても、「父母なる神」とは書かれていない。
・私たちの目標は理想家庭の完成を通して喜びを感じること、それはあまりにも尊い内容である。
・み言で何度も登場する「夜の神様」の話。「夜の神様」とは、宇宙を創造する以前の一人でおられた神様のことをさすとも言われる。創造前の準備にどれほどの労力と手間をかけ、大変であったか、私たちの想像すらできないこと。
・しかし、神様の創造には目的がある。それだけの労力を投入する目的があったということ。その尊い目的は何だったのか?
ヨブ記38章で神が語った「プレアデスの鎖」-別名すばる・幼少の頃、アリが盛んに働いている姿を見るのが好きだった。東北の夜空は本当にきれいで、星空を見上げながら、空の星はなぜあるのか、そういうことを考えていた。
・神様の創造の目的、人間の生きる目的を考えたとき、み言には「真の愛を通して理想家庭を完成すること」とある。
・本来の神様の姿は、喜怒哀楽が大きく強いもの。神様は心情の内容があまりにも深い。その心情世界が誰にもわからなかった。
・既成キリスト教では、神は全権全能ばかりが強調され、神様の真実の姿が見えなかった。
・「完成、完了」とは、「本然の世界」への“出発”という意味が隠されている。
・興進様が霊界に行かれて大きな役事があった。そしてこの9月に文先生が「完成(ワンソン)」を祈祷されて、霊界に行かれた。どれほど大きな役事が今後展開されるだろうか。
・天上に行かれたお父様と地上のお母様と一体となり、大きな摂理の進展があるだろう。
・平和神経に収録されている平和メッセージは、文先生のみ言の中でも、講演前に一字一句を何度も修正しながら作り上げて行かれたメッセージであることを考えると、その中で論じられている「本然の世界」は、何よりも深い意味を持っている。
・「万王の王」「救世主」「再臨主」さまざまな呼び方があるが、その中でも「真の父母」「真の子女」の概念は、「本然の世界」から発せられたもので、次元がまったく違う。
・平和神経をはじめ八大教材教本のみ言は、文先生が地上におられたときは“遺言のようなもの”だったが、聖和されて以降は“遺言”そのものである。八大教材教本には今後、加えられることも、削られることもない。
・文先生が闘病中、お母様はどれほど祈りながら泣き続けられたことだろうか。闘病中も、聖和されて以降も、お母様はほとんど寝られず、休みも取らず、食事もろくにされなかった。お父様のふだんの睡眠をほとんど取らない生活に対して「もっと寝てくださいと言っていれば、きっとお元気でもっと長生きされたはず」と聖和式後の集会の中で語られた。
・命がけで来られたお父様の生活ぶりや、それを支えるお母様の思いなど、私たちにはなかなか知り得ない。
出発式で語られるお母様・しかし40日追慕期間を経た今のお母様は、堂々とその役割と使命をついでおられる。今は天上にいらっしゃるお父様と完全に一つになって摂理を指導されている。
・その中でも、神霊と真理と愛に満ちた教会を取り戻すべく、何度もその方向性を強調された。

・「本然」の世界、それは花一つとってみても、神様の創造の神秘が盛り込まれている。そこには不義や偽りなど、みじんもない世界。そのような「本然」の世界を見据えて、いよいよ出発するとき。それが2013年天暦1月13日に基元節を迎えて、それ以降の歩みを進める時代である。
・家庭を含めた身の回りのものをすべて投げ出してきたのにもかかわらず、与えられた家庭の恵み。あまりにも尊い。
・お母様も今70歳。あと20年で90歳、30年で100歳。お母様がいつの日か、霊界に行かれたときは、お父様と完全に一つとなっていくことだろう。イエス様が語った「私を見たものは神を見たものである」というみ言の内容が、そのまま現れていくことになる。
・神様の願われた「本然」の世界を見つめつつ、お母様と一つになりながら、歩みを進めよう。


■み言訓読  平和神経より

平和メッセージ9「神様の理想家庭と平和理想世界王国(3)」

<神様の創造目的>

尊敬する世界の平和指導者の皆様、神様が人間を創造した究極的な目的はどこにあると思われますか。真の愛を中心とした理想家庭の完成を通して、喜びを感じることでした。それでは、理想家庭とはどのような姿でしょうか。神様が創造された最初の人間は、男性格を代表したモデルとしてのアダムと、女性格を代表したモデルとしてのエバでした。だとすれば、彼らが真の愛の見本となる人格者と主人になる道とは、どのような道だったのでしょうか。一言で言えば、神様を父として侍って生きていける父母と子女の関係を確保するモデル平和理想家庭でした。神様と一つの家族を成し、永遠に喜びを感じて生きる道であるという意味です。
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このように神様は、モデル平和理想家庭を成し遂げようと、アダムとエバを創造して人類の最初の先祖として立てられました。御自身のすべてを完全投入され、真の愛と真の生命と真の血統が連結した息子、娘として立てられたのです。
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したがって、アダムとエバが神様のみ旨のとおりに個人完成、すなわち人格完成を成し、神様の祝福の中で夫婦関係を結び、神様と完全一体を成していたならば、神様が彼らの中に臨在なさることのできる因縁が決定していたことでしょう。さらには、彼らの子女にも、神様と直接的に父子の因縁を結べる愛の基準が連結されていたことでしょう。言い換えれば、完成したアダムとエバの結婚は、神様御自身の結婚になっていたのです。神様であると同時にアダムであり、エバであると同時に神様となり、アダムとエバは神様の体となり、神様は彼らの心の位置に安着され、共に有形、無形、二つの世界で人類の真の父母になっていたことでしょう。

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