Google Mapで訪ねる主の路程(7)-地下独立運動と戸塚警察署、四谷見附橋の格闘、四谷・品川の貧民窟(前編)


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第7回(前編)-地下独立運動と戸塚警察署、四谷見附橋の格闘、四谷・品川の貧民窟

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第7回前編は、文先生が留日中に携わっていた地下独立運動とそれを取り締まっていた当時の戸塚警察署、四谷見附橋での格闘、四谷や品川にあった貧民窟での救済活動です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また統一教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

戸塚警察署 跡(現・清美荘付近 )


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戦前の旧・戸塚警察署を描いた絵地図 1943年の最新大東京明細地圖
戦前の戸塚町絵地図(聖所巡礼パンフレットより)/1943年『最新大東京明細地圖』
旧・戸塚警察署は当時、早稲田通りから少し奥まった場所に位置していたことがわかります。
文先生の下宿先とそれほど離れていない、きわめて近い距離にありました。

四谷見附橋の格闘

大正2年(1913年)完成当時の旧・四谷見附橋
大正2年(1913年)完成当時の旧・四谷見附橋
四谷見附橋は、外堀と堀にそって進む中央線をまたぐ近代的なアーチ橋として作られました。
また、四谷見附橋の欄干は、ネオ・バロック様式を基調とした格調高いもので、
平成になって橋が架け替えられた後も、当時の欄干が再利用されています。


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なぜ文先生が四谷という場所に出入りされていたのか?それを考証しているときに、ふと史料を見ていて気づいたのが、戦前・戦中の四谷には貧民窟があったという事実です。四谷の貧民窟にも、多くの朝鮮人労働者が流れて住み着いていたことでしょう。そのような場所を文先生は訪れ、共に食事したり、施しをして、救済活動に精を出されていたに違いありません。

1942年発行の最新大東京案内圖 井上貞蔵著『一経済学徒の断草』(クリックで拡大)
1942年発行の『最新大東京案内圖』/井上貞蔵著『一経済学徒の断草』
四谷鮫ヶ谷橋地区は、明治以来、東京三大貧民窟の一つにあげられており、
上記の書籍では谷町付近が当時の貧民窟の場所だったと伝えています。
井上博士は賀川豊彦と親交のあった学者。(現在は貧民窟はありません)

品川(貧民窟のあったとされる場所)


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1940年発行の番地入大東京明細地圖 井上貞蔵著『一経済学徒の断草』(クリックで拡大)
1940年発行の『番地入大東京明細地圖』/井上貞蔵著『一経済学徒の断草』
井上博士の著作物では、現在の北品川から青物横丁界わいにかけて貧民窟が
点在していたことについてふれています。(現在は貧民窟はありません)


『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.80~P.84より引用)

東京には、留学生で構成された地下独立運動組織がありました。祖国が日本の植民統治下で呻吟していたのです。独立運動は当然のことでした。大東亜戦争が熾烈を極めるにつれて、弾圧は日に日に激しさを増していきました。日本政府が韓国の学生たちを学徒兵という名目で戦場に追い立て始めると、地下独立運動も次第に活発になっていきました。日本の天皇をどうけるかについて色々と討論したこともあります。私は組織上、留学生を束ねる責任者となり、金九先生の大韓民国臨時政府 (金九は当時主席) と緊密に連携しながら、同臨時政府を支援する仕事を受け持ちました。いざとなれば命を投げ出さなければならない立場でしたが、正義のためという考えから、ためらいはありませんでした。

早稲田大学の西側に警察署がありました。私の活動に感づいた警察は、絶えず目を光らせて私を監視しました。夏休みに故郷に帰ろうとしても、先に警察が嗅ぎつけて、埠頭や駅に私服警官を送って見張るほどでした。そのため、警察に捕まって、取調べを受けたり、殴られたり、留置場に拘禁されたりしたことも、数え切れないほどありました。追いかけてきた警察と四ツ谷の橋で、欄干の柱を抜いて戦ったこともあります。この当時、私はぐつぐつと煮えたぎる火の玉のようでした。

        ☆                   ☆

ある時は品川の貧民窟で生活してみました。ぼろを被ったまま寝て、日差しの強い真昼になってシラミを捕まえたり、乞食たちがもらってきたご飯を分け合って食べたりしました。品川の通りには、流れ者の女性も大勢いました。一人一人事情を聞いてあげると、お酒を一口も飲めない私が、いつしか彼女たちのかけがえのない友になっていました。酒を飲まなければ本心を打ち明けられないというのは、空しい言い訳です。酒の力を借りなくても、彼女たちを不欄に思う私の心が真実だと分かると、彼女たちも素直な心で胸の内を明かしました。
 
※大韓民国臨時政府と金九先生については、ウィキペディアの大韓民国臨時政府金九の解説を参照。
 

『真の御父母様の生涯路程1』 第五節「日本東京留学時代」より引用

四 抗日地下学生運動

 私は二十代のころに、神様の前に「この民族を救おう」と誓いました。日本国民が天皇のことを思う心よりも、私が韓国の三千万を代表した立場で神様を愛する心が、もっと強いと信じました。それゆえに、日帝は滅びると信じました。

 日帝が先に打ったから、滅びるしかないというのです。偽りが真を打てば、残る法がありません。ですから私は心の中で、「打ちたいだけ打ってみろ。これ以上打つことができないという日には、ひっくり返るだろう」と思いました。

 先生が東京で勉強している時に、先生は東京をたくさん歩き回りました。行ってみない所がありませんでした。将来の計画があったためです。「今から数年後には、日本の若者たちが必ず立ち上がるだろう」と考えながらです。

 学者はどうであり、労働者はどうであると、全部実地調査するために、先生は路地裏の道を、たくさん歩いたのです。全部密使のように行ってきたというのです。だからといって、犯罪を犯すのではありません。この国はいつまでに滅びなければならない、天の復帰摂理のプログラムにおいて、時が来れば、その時に該当し得る期間になれば、滅びなけれぱならないというのです。そのような心をもって、東京駅に降りる時から戦ってきたのです。話はしないけれど、道を行きながら、「私が歩いている道よ、お前は知っているだろう、韓民族が行く道を」と語りかけ、木を眺めても、「怨讐の地にある万物よ、お前は天に属するものであるから私を知っているだろう」と語りかけて歩いたのです。

        ☆                   ☆

 先生の後ろには、いつも刑事たちが付いて回りました。私が韓国に来るようになれば、彼らが前もって電話をして、「なにがしが今韓国のどこに行く」と連絡をします。そのようにして、先生が駅の改札口を出れば、願わない人々が来て、今来られたか」と言います。

 先生は学生であっても、要注意人物でした。しかし普通の人は、先生をよく知りませんでした。先生は何度も留置場に引っ張られました。東京にいる時には、一ヵ月に一度は警察署に呼ばれました。その警察署は、早稲田通りをはさんで早稲田大学の反対側にありました。

 二十代の時に日本の警官によって拷問も受けました。そして戦ってきました。むちで打たれ、拷問されながらも、先生は堂々としていました。そのようなことを忘れることができません。四ッ谷の橋の欄干の柱を抜いて、戦った青春時代を忘れることができません。

        ☆                   ☆

六 最低から最高までの生活体験

 日本留学時代に、先生は貧民窟から売春宿に至るまで、行ってみなかった所がありません。かといって、悪い行動をしたというのではありません。

 先生は品川の貧民街を、総なめしたことがあります。そのようなことが先生に、非常に優れた価値観を形成させたのです。記憶に残ることは、貧民窟での生活です。そこでぼろを引っかぶって、しらみを捕まえた記憶が今もとても生々しく残っています。そのように先生は、乞食の巣窟に行って親分の役をして、御飯ももらい食いしたり、ありとあらゆることをしてみた人です。

 栄光の神様だけではありません。悲惨な神様にもなるのです。ですから、そのような神様を知るためには、そのような位置に行かなければなりません。栄光の神様を知ることは易しいのです。しかし、悲惨な神様を知ることは簡単ではありません。

 また、日本の国を知るために、貧民窟から始めたのです。ところが、今回行ってみると、その昔の痕跡はなかったのです。それでも、何箇所か残っていました。日本留学は怨讐の国である日本民族を滅びるようにするためではありませんでした。この本が終われば、第二巻には日本民族を愛さなければならない道があるというのです。ですから、この本の第一巻において、怨讐だという記録を残すことはできないのです。記録として残すことができず、行動の実績を残すことができない道を、黙々と行かなければならないのです。
 

『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』増補版(補足資料P.356~P.359より引用)

 『特高月報 昭和十八年十二月分』(内務省警保局保安課)には、次のような記録が残されています。
「昭和十七年九月上旬頃東京都淀橋区戸塚町一ノ五二三白鷺荘に於て大原麟瑞は友人たる専修大学生高山允徳、早大生江本某、早大生松本鎬禧の三名に対し支那蒋介石軍の下に朝鮮独立運動者が参加し日本と戦争し居る旨を強調同志として獲得せんとして朝鮮独立に関し宣伝扇動を為したり」
 ここに記されている「早大生江本某」とは、文先生のことです。文先生が下宿された家の当時の住所が淀橋区戸塚町一ノ五〇三番地でしたから、白鷺荘は下宿先から徒歩一、二分の所にありました。
 
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