Google Mapで訪ねる主の路程(7)-地下独立運動と戸塚警察署、四谷見附橋の格闘、四谷・品川の貧民窟(前編)


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第7回(前編)-地下独立運動と戸塚警察署、四谷見附橋の格闘、四谷・品川の貧民窟

この記事掲載時点では詳細にわかっていなかった文先生が頻繁に訪れたという「品川の貧民窟」ですが、旧東京市の調査により、2015年に品川の貧民窟跡の4個所が詳細に判明しました。資料に掲載されている手書きの調査地図や写真についてだけ最後尾に掲載しました。貧民窟跡地という微妙な問題であるため、公開サイト上では場所を具体的に明らかにすることは控えさせていただきます。現在では「東京・神奈川の知られざる聖地巡礼ウォーキング(品川編)」を西東京教区壮年部主催で実施、定期的にこの場所を訪れています。聖地巡礼ウォーキングでは、「品川で祈られた山」の推定候補地も訪れています。関心のある方はお問い合わせください。
また、四ツ谷に貧民窟があったことについてふれましたが、み言には品川の貧民窟に頻繁に行かれたことが何度も登場するものの、四ツ谷の貧民窟はまったく登場しません。いまでは文先生が四ツ谷にあった貧民窟を訪れた可能性は低いと考えています。(2022年6月筆者記)
「品川で祈られた山」(祈られた森)の推定候補地も地図と航空写真を合わせて付け加えました。(2022年7月5日筆者記)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第7回前編は、文先生が留日中に携わっていた地下独立運動とそれを取り締まっていた当時の戸塚警察署、四谷見附橋での格闘、四谷や品川にあった貧民窟での救済活動です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

戸塚警察署 跡(現・清美荘付近 )


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戦前の旧・戸塚警察署を描いた絵地図 1943年の最新大東京明細地圖
戦前の戸塚町絵地図(聖所巡礼パンフレットより)/1943年『最新大東京明細地圖』
旧・戸塚警察署は当時、早稲田通りから少し奥まった場所に位置していたことがわかります。
文先生の下宿先とそれほど離れていない、きわめて近い距離にありました。

四谷見附橋の格闘

大正2年(1913年)完成当時の旧・四谷見附橋
大正2年(1913年)完成当時の旧・四谷見附橋
四谷見附橋は、外堀と堀にそって進む中央線をまたぐ近代的なアーチ橋として作られました。
また、四谷見附橋の欄干は、ネオ・バロック様式を基調とした格調高いもので、
平成になって橋が架け替えられた後も、当時の欄干が再利用されています。


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なぜ文先生が四ツ谷という場所に出入りされていたのか?ふと気づいたのが、戦前の四ツ谷には貧民窟があったという事実です。品川の貧民窟だけでなく、四ツ谷の貧民窟にも行かれたのかと考えました。しかしみ言にはそのような内容は登場しません。
またある別の人からすれば、四ツ谷駅のすぐ東側に上智大学がありましたから、上智大学で開かれた朝鮮からの留学生による独立運動の集会に文先生が参加した帰りのできごとではなかったかと想像する人もいます。

1942年発行の最新大東京案内圖 井上貞蔵著『一経済学徒の断草』(クリックで拡大)
1942年発行の『最新大東京案内圖』/井上貞蔵著『一経済学徒の断草』
四谷鮫ヶ谷橋地区は、明治以来、東京三大貧民窟の一つにあげられており、
上記の書籍では谷町付近が当時の貧民窟の場所だったと伝えています。
井上博士は賀川豊彦と親交のあった学者。(現在は貧民窟はありません)

品川の町と品川に存在した貧民窟


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1940年発行の番地入大東京明細地圖 井上貞蔵著『一経済学徒の断草』(クリックで拡大)
1940年発行の『番地入大東京明細地圖』/井上貞蔵著『一経済学徒の断草』
井上博士の著作物では、現在の北品川から青物横丁界わいにかけて貧民窟が
点在していたことについてふれています。(現在は貧民窟はありません)

詳細にわかっていなかった品川の貧民窟ですが、2015年に旧東京市の調査資料や関連する自費出版本を見つけ出すことができ、貧民窟の4地域が南品川にあったこと、規模や居住人数、番地までの詳細な情報が判明しています。住んでいる人の立場を考えると、貧民窟跡地という微妙な問題であるため、東京市の資料から手書き調査地図と写真および概要だけ下記に紹介することにし、公開サイト上ではくわしい情報をあえて控えさせていただきます。現在では西東京教区壮年部主催で「東京・神奈川の知られざる聖地巡礼ウォーキング(品川編)」を実施、定期的に文先生ゆかりの場所を訪れるようにしています。

「品川の貧民窟」調査地図と写真
「貧民窟」地域4個所の手書き調査地図 「貧民窟」地域4個所の手書き調査地図
「貧民窟」地域4個所の手書き調査地図 「貧民窟」地域4個所の手書き調査地図
「貧民窟」地域2個所の調査写真
「貧民窟」地域2個所の調査写真
南品川に存在した「貧民窟」地域4個所の手書き調査地図と2個所の写真。行政では「貧民窟」「貧民街」の呼称は使わず「不良住宅地区」と呼んでいる。1つの地域で90人~140人の居住者が住んでいた。写真の一つは共同炊事場を写している。『東京市新市域不良住宅地区調査』東京市社会局 昭和11年より up!
北品川と南品川からなる品川と「品川の貧民窟」があった場所
北品川と南品川からなる品川(クリックで拡大表示)
品川の町は旧東海道に沿って目黒川をはさんで北側の北品川と南側の南品川に分かれています。昭和初期から戦前にかけての時期、「品川の貧民窟」は北品川には存在せず、南品川にあったことが判明しています。地図上では赤い点線枠で表示したエリア、南馬場駅(現在は新馬場駅に合併)と青物横丁駅との間に4地域存在していました。より具体的かつ詳細な情報は公表を控えます。『品川区全図』1933年より(クリックで拡大表示) up!


『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.80~P.84より引用)

東京には、留学生で構成された地下独立運動組織がありました。祖国が日本の植民統治下で呻吟していたのです。独立運動は当然のことでした。大東亜戦争が熾烈を極めるにつれて、弾圧は日に日に激しさを増していきました。日本政府が韓国の学生たちを学徒兵という名目で戦場に追い立て始めると、地下独立運動も次第に活発になっていきました。日本の天皇をどうけるかについて色々と討論したこともあります。私は組織上、留学生を束ねる責任者となり、金九先生の大韓民国臨時政府 (金九は当時主席) と緊密に連携しながら、同臨時政府を支援する仕事を受け持ちました。いざとなれば命を投げ出さなければならない立場でしたが、正義のためという考えから、ためらいはありませんでした。

早稲田大学の西側に警察署がありました。私の活動に感づいた警察は、絶えず目を光らせて私を監視しました。夏休みに故郷に帰ろうとしても、先に警察が嗅ぎつけて、埠頭や駅に私服警官を送って見張るほどでした。そのため、警察に捕まって、取調べを受けたり、殴られたり、留置場に拘禁されたりしたことも、数え切れないほどありました。追いかけてきた警察と四ツ谷の橋で、欄干の柱を抜いて戦ったこともあります。この当時、私はぐつぐつと煮えたぎる火の玉のようでした。

☆                   ☆

ある時は品川の貧民窟で生活してみました。ぼろを被ったまま寝て、日差しの強い真昼になってシラミを捕まえたり、乞食たちがもらってきたご飯を分け合って食べたりしました。品川の通りには、流れ者の女性も大勢いました。一人一人事情を聞いてあげると、お酒を一口も飲めない私が、いつしか彼女たちのかけがえのない友になっていました。酒を飲まなければ本心を打ち明けられないというのは、空しい言い訳です。酒の力を借りなくても、彼女たちを不欄に思う私の心が真実だと分かると、彼女たちも素直な心で胸の内を明かしました。

※大韓民国臨時政府と金九先生については、ウィキペディアの大韓民国臨時政府金九の解説を参照。


『真の御父母様の生涯路程1』 第五節「日本東京留学時代」より引用

四 抗日地下学生運動

私は二十代のころに、神様の前に「この民族を救おう」と誓いました。日本国民が天皇のことを思う心よりも、私が韓国の三千万を代表した立場で神様を愛する心が、もっと強いと信じました。それゆえに、日帝は滅びると信じました。

日帝が先に打ったから、滅びるしかないというのです。偽りが真を打てば、残る法がありません。ですから私は心の中で、「打ちたいだけ打ってみろ。これ以上打つことができないという日には、ひっくり返るだろう」と思いました。

先生が東京で勉強している時に、先生は東京をたくさん歩き回りました。行ってみない所がありませんでした。将来の計画があったためです。「今から数年後には、日本の若者たちが必ず立ち上がるだろう」と考えながらです。

学者はどうであり、労働者はどうであると、全部実地調査するために、先生は路地裏の道を、たくさん歩いたのです。全部密使のように行ってきたというのです。だからといって、犯罪を犯すのではありません。この国はいつまでに滅びなければならない、天の復帰摂理のプログラムにおいて、時が来れば、その時に該当し得る期間になれば、滅びなけれぱならないというのです。そのような心をもって、東京駅に降りる時から戦ってきたのです。話はしないけれど、道を行きながら、「私が歩いている道よ、お前は知っているだろう、韓民族が行く道を」と語りかけ、木を眺めても、「怨讐の地にある万物よ、お前は天に属するものであるから私を知っているだろう」と語りかけて歩いたのです。

☆                   ☆

先生の後ろには、いつも刑事たちが付いて回りました。私が韓国に来るようになれば、彼らが前もって電話をして、「なにがしが今韓国のどこに行く」と連絡をします。そのようにして、先生が駅の改札口を出れば、願わない人々が来て、今来られたか」と言います。

先生は学生であっても、要注意人物でした。しかし普通の人は、先生をよく知りませんでした。先生は何度も留置場に引っ張られました。東京にいる時には、一ヵ月に一度は警察署に呼ばれました。その警察署は、早稲田通りをはさんで早稲田大学の反対側にありました。

二十代の時に日本の警官によって拷問も受けました。そして戦ってきました。むちで打たれ、拷問されながらも、先生は堂々としていました。そのようなことを忘れることができません。四ッ谷の橋の欄干の柱を抜いて、戦った青春時代を忘れることができません。

☆                   ☆

六 最低から最高までの生活体験

日本留学時代に、先生は貧民窟から売春宿に至るまで、行ってみなかった所がありません。かといって、悪い行動をしたというのではありません。

先生は品川の貧民街を、総なめしたことがあります。そのようなことが先生に、非常に優れた価値観を形成させたのです。記憶に残ることは、貧民窟での生活です。そこでぼろを引っかぶって、しらみを捕まえた記憶が今もとても生々しく残っています。そのように先生は、乞食の巣窟に行って親分の役をして、御飯ももらい食いしたり、ありとあらゆることをしてみた人です。

栄光の神様だけではありません。悲惨な神様にもなるのです。ですから、そのような神様を知るためには、そのような位置に行かなければなりません。栄光の神様を知ることは易しいのです。しかし、悲惨な神様を知ることは簡単ではありません。

また、日本の国を知るために、貧民窟から始めたのです。ところが、今回行ってみると、その昔の痕跡はなかったのです。それでも、何箇所か残っていました。日本留学は怨讐の国である日本民族を滅びるようにするためではありませんでした。この本が終われば、第二巻には日本民族を愛さなければならない道があるというのです。ですから、この本の第一巻において、怨讐だという記録を残すことはできないのです。記録として残すことができず、行動の実績を残すことができない道を、黙々と行かなければならないのです。


『日本統一教会史』より
日本の貧民窟へも行ったんだよ。品川の裏町とかね。布団ひとつで三人四人も寝ておる。それにはシラミがたかっておる。そういうところで、すました顔でもって足を入れて寝る。気持ちはどうだ。昨日は天下の最高の王、今日は悲惨なる貧乏の洞窟。シラミと友達になるというような境地。かみつきおったら、これをかくんだね。そのかく面白さ。笑うんじゃないよ。面白いもんだよ。それは劇的である。詩的である。(1971年3月31日)


み言「先生が死んでも御旨は世界を征服する」より
だから先生も、そんなことを、みんなやってきた。先生から言わせれば、何かやったことのないことはない。大概やってみたね。日本に来ても、相当、労働場を歩き回ったね。川崎の造船所があるだろう。あそこに、よく行ったんだ。石炭運びとか、品川、貧民窟とか、そういう所をずうっと方々回ってきた。なぜかというと、その国の状態をはっきり知るには、そういう所に行かなけりゃならない。(1967年6月13日)


『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』増補版(補足資料P.356~P.359より引用)

『特高月報 昭和十八年十二月分』(内務省警保局保安課)には、次のような記録が残されています。
「昭和十七年九月上旬頃東京都淀橋区戸塚町一ノ五二三白鷺荘に於て大原麟瑞は友人たる専修大学生高山允徳、早大生江本某、早大生松本鎬禧の三名に対し支那蒋介石軍の下に朝鮮独立運動者が参加し日本と戦争し居る旨を強調同志として獲得せんとして朝鮮独立に関し宣伝扇動を為したり」
ここに記されている「早大生江本某」とは、文先生のことです。文先生が下宿された家の当時の住所が淀橋区戸塚町一ノ五〇三番地でしたから、白鷺荘は下宿先から徒歩一、二分の所にありました。


『日本統一教会史』より
品川に、今もあると思うんだがね、品川駅をずーっと過ぎて行くと、道がこうなって丘があるんだね。丘があって、そして鉄道があるから、こっちから渡る橋がある。ずーっとそこに大山とか何とかいう山がある。そこに多く行ってね、祈ったことがある。時間があれば、ああいうところを回ってみたいんだけど、時間がないんだね。東京と言えば、虎ノ門のところあるでしょう、あの宮城の近くに。あそこの地形は忘れられない。あのころのことを今、思い出すんだね。学生としてでないよ。あらゆる社会の状況下に、荒波の中に潜りながら、御旨に生きる者としての価値の境地をいかに打開するか、その責任を持ちながら、いろいろ先生として対決してきたところだ。(1967年6月19日)

※上記のみ言には品川で祈られた山、祈られた森のことが登場します。品川駅高輪口から南方向に向かって歩いていくと、ゆるい上り坂になっていて、鉄道つまり東海道線を越える橋「八ツ山橋」があります。八ツ山橋をすぎて国道をそのまま南下していくと、昭和30年代頃まで「品川の森」と呼ばれていた木が多く繁った、丘と言っていいような低い山がありました。現在、戦後の開発で半分ぐらいになった権現山公園や品川神社(神社境内の富士塚)が小高い山としてポツンと残っています。「東京・神奈川の知られざる聖地巡礼ウォーキング(品川編)」ではこれらの場所も候補地として訪れています。


品川で祈られた山、祈られた森
地元で呼ばれていた「品川の森」
昭和30年頃まで、地元で「品川の森」と呼ばれていた木が多く繁った低い山があった。写真は南側にあった旧・品川区役所(現・保健センター)から1953年撮影された「品川の森」。権現山公園の山や品川神社の山が見える。「品川WEB写真館」より up!
品川で祈られた山の候補地(クリックで拡大表示)
戦前の航空写真で、八ツ山橋をすぎて国道をそのまま南下した場所を見ると、森のある低い山が確認できます。左側が権現山公園、右側が品川神社の山。1944年陸軍撮影の空中写真より(クリックで拡大表示) up!


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