第8回-東京・銀座、川崎の製鉄所/横浜・鶴見の造船所
埠頭で石炭の運搬労働をされた「川崎の造船所」、硫酸タンク(酸洗タンク)の労働をされた「川崎の鉄工所(=鉄鋼所)」の場所もその後の探究でよりはっきりわかりました。埠頭は旧日本鋼管鶴見造船所・鶴見製鉄所に位置し、硫酸タンク(酸洗タンク)の労働をした工場は旧日本鋼管川崎製鉄所と鶴見製鉄所の圧延工場です。
現在では「東京・神奈川の知られざる聖地巡礼ウォーキング(川崎・鶴見編)」を西東京教区壮年部主催で実施しており、敷地内には入れないものの近傍から眺める形で、定期的にこれらの場所を訪れています。石炭運搬労働をされたときピンはね率が多いと文先生が飯場の親方に抗議したという話しは有名ですが、この飯場の所在地も2017年に判明しました。巡礼ではこの跡地も訪れています。(2022年6月筆者記)
「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第8回は、文先生が電信柱をリアカーで運ぶ仕事をしていたときの銀座でのエピソード、そして日雇い労働先の工場として頻繁に通われた京浜工業地帯の製鉄所(自叙伝には鉄工所と表記)および造船所です。
実は、1940年当時、京浜工業地帯に大規模な製鉄所と造船所がどこにどれだけあったかを調べてみると、それぞれ1つ以外に見つけらず、特定できてしまうことがわかりました。製鉄所は、川崎の日本鋼管京浜製鉄所[川崎製鉄所](当時)、造船所は横浜・鶴見の日本鋼管鶴見造船所(当時)です。どちらも日本鋼管が持っていた工場ですが、2012年現在では、社名変更や、事業の売却、企業の統合合併などによりそれぞれ、JFEスチール東日本製鉄所、ユニバーサル造船京浜事業所(その後ジャパンマリンユナイテッドに社名変更)に変わっています。依然として大規模な工場には変わりません。
生前、文先生ご自身が「日本鋼管の工場」と発言されており、ここでは引用していないものの、日本鋼管での労働に関連するみ言もたくさん残っています。
〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。
東京・銀座
戦前の銀座風景-銀座和光前/1942年発行の『最新大東京案内圖』
銀座にはまだ川が残っており川沿いの柳がきれいだったという
写真は1930年代の大阪の街で大八車を引く人/1930年代の銀座の街並み
リアカーというより大八車でこのように荷物を運ばれていたのかもしれない
川崎の製鉄所-日本鋼管京浜製鉄所[日本鋼管川崎製鉄所]
(現在はJFEスチール東日本製鉄所)
戦前の日本鋼管川崎製鉄所(1938年発行全国地方銀行協会会報)/1934年発行の『新大横濱市全圖』
(↑左)左右に大きくそびえ立つのが高炉、まん中に小さく3つあるのが熱風炉。
1940年版の地図には戦時体制下のため軍需工場がすべて地図から抹消されているが(↑右)
1934年版地図には「日本鋼管株式会社」が大きく書かれている。
文先生がよく中に入って、洗浄したという硫酸タンク。硫酸タンクに入れた大量の硫酸は、酸化した鋼板の表面を洗浄しきれいにするために使うものです。鉄鉱石から鋼板を作り出す大規模な「製鉄所」ならではのものと言えます。自叙伝が日本語訳されたとき、あるいはもっとさかのぼって、み言を文章で掘り起こしたときに「鉄工所」の語句が使われていますが、これは本来なら、鉄材を溶接加工するような「鉄工所」ではなく、製鉄所や製鋼所を意味する「鉄鋼所」の語句が使われるべきかと思われます。
『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』の中にも登場する「鉄工所」とは、同音異義語である「鉄鋼所」の誤記だとすればこれは「製鉄所」と同義です。別の原理大修練会でのみ言でも「日本鋼管で働いていた」ことにたびたびふれられているので、旧日本鋼管の製鉄所工場であることは間違いありません。さらにまた、その後の研究でみ言で説明されている作業内容を科学的に解明することによって、労働された工場とその位置の推定ができました。
『日本統一運動史』の中にもその仕事内容を説明されている、文先生が「硫酸のタンク」で行っていた労働とは、製鉄所圧延工場にある酸洗槽(酸洗タンク)での硫酸溶液をセメントダストを使っての中和処理作業であると考えています。
製鉄所の圧延工場には、鋼板や鋼管を圧延する工程の仕上がり段階で、スケールと呼ばれる酸化鉄被膜を硫酸溶液を使って溶かし落とす酸洗(さんせん)工程がありました。酸洗の設備には細長い浴槽スタイルの「酸洗槽(酸洗タンク)」と呼ばれるタンクがあり、その中を圧延した鋼板や鋼管をくぐらせます。硫酸溶液は溶けた酸化鉄が飽和して使えなくなれば廃棄する必要があり、その前に強酸性の硫酸溶液を中和しなくてはなりません。「砂のセメント」とはセメントダストのことで、労働内容は強酸性の硫酸溶液をアルカリ性のセメントダストで中和処理させる作業のことだったのです。
日本鋼管の工場の中でも、こうした圧延工場に酸洗槽(酸洗タンク)の酸洗工程設備をもった工場こそが、文先生が「硫酸タンクでの労働作業をした」と言っている場所になります。旧日本鋼管川崎製鉄所の第一・第二製管工場、旧日本鋼管鶴見製鉄所の第二・第三・第四製板工場が、文先生が労働されていた場所であると推測しています。(2022年6月筆者記)
「硫酸のタンク」の実際の姿と文先生が労働された内容
「硫酸のタンク」とはこのような形状の「酸洗槽(酸洗タンク)」のこと。『酸洗設備の設計とモネル・メタル』1936年より(クリックで拡大表示)
廃酸の中和処理したときの化学反応と文先生が労働された作業の図解説明。『東京・神奈川の知られざる聖地巡礼ウォーキング』ガイドブックより(クリックで拡大表示)
文先生が労働された工場の推定場所
文先生が労働された工場の限定して推定される場所。旧日本鋼管鶴見製鉄所にある圧延工場のうち、酸洗槽(酸洗タンク)の酸洗工程設備がある可能性が高い第二・第三・第四製板工場。『東京・神奈川の知られざる聖地巡礼ウォーキング』ガイドブックより(クリックで拡大表示)
文先生が労働された工場の限定して推定される場所。旧日本鋼管川崎製鉄所にある圧延工場のうち、酸洗槽(酸洗タンク)の酸洗工程設備がある可能性が高い第一・第二製管工場。『東京・神奈川の知られざる聖地巡礼ウォーキング』ガイドブックより(クリックで拡大表示)
横浜・鶴見の造船所-日本鋼管鶴見造船所
(現在はユニバーサル造船京浜事業所を経てジャパンマリンユナイテッド鶴見工場)
[当時右隣りに併設]日本鋼管鶴見製鉄所(現在はJFEエンジニアリング鶴見製作所)
1942年に日本鋼管鶴見造船所で作られた駆潜艇28艇と38艇/1934年発行の『新大横濱市全圖』
(↑左)駆潜艇(くせんてい)とは対潜水艦攻撃のために作られた軍艦。
鶴見造船所はこれらの駆潜艇を中心に大量に作り出していた軍事工場だった。
1940年版には戦時体制下のため軍需工場が地図から抹消されているが(↑右)
1934年版地図にはこのときは前身の「浅野造船所」が書かれている。
文先生が労働していたとあえて取り上げた造船所は、駆潜艇と呼ばれる軍艦を大量に作り出していた完全な軍事工場でした。考えてみれば、1940~1943年の戦時体制下での造船所とは、大なり小なりこのような軍事工場であったことは想像に難くありません。
「埠頭での石炭運び」労働をされた場所については、より詳細なレポートがあります。〔特別編〕文先生が留日時代に造船所で労働されていた場所がピンポイントで判明 をご覧ください。
1943年発行の『東京都全圖』に載っている京浜工業地帯と鶴見臨海鉄道(右下)
横浜・鶴見の造船所と川崎の製鉄所の位置を見ると、横浜・鶴見から分岐していた鶴見臨海鉄道(現・JR鶴見線)の沿線にあることがわかります。鶴見造船所が「弁天橋」(この地図にはない)、鶴見製鉄所が「浅野」、川崎製鉄所が「渡田」(地図では新浜川崎)駅前で、実際には電車に乗れば各工場への移動は7,8分以内で移動できます。
東京・神奈川の知られざる聖地巡礼ウォーキング(川崎・鶴見編)では、旧日本鋼管川崎製鉄所圧延工場の第一・第二製管工場のあった場所や、旧日本鋼管鶴見製鉄所・鶴見造船所の共用門だった場所も訪れています。前者の工場は今はJFEスチール京浜事業所となり、後者の工場はそれぞれJFEエンジニアリング、ジャパン・マリン・ユナイテッドに承継されています。
旧日本鋼管鶴見製鉄所・川崎製鉄所圧延工場は、文先生の「硫酸のタンク(=酸洗タンク)」での労働場所であり、旧日本鋼管鶴見造船所は「埠頭での石炭運び」労働をされた場所です。(2022年6月筆者記)
「硫酸のタンク」の労働をした旧日本鋼管川崎製鉄所圧延工場と
「埠頭での石炭運び」労働した旧日本鋼管鶴見造船所・製鉄所の共用門
旧日本鋼管川崎製鉄所(現JFEスチール京浜事業所)圧延工場の横で。(上)/旧日本鋼管鶴見製鉄所・鶴見造船所の共用門だった場所。現在でもJFEエンジニアリング、ジャパン・マリン・ユナイテッドと二社の共用門となっている。(下)
『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.81~P.83より引用)
所持金をはたいて全部分け与えた後は、リヤカーで荷物を配達する仕事をしました。東京の二十七の区域をリヤカーで縫うようにして回りました。電信柱を載せたリヤカーを引いて華やかな街灯がともる銀座を通った時、交差点の途中で信号が赤になってしまい、その場に立ち止まったため、道行く人々がびっくりして逃げていったこともあります。おかげで、今でも東京の隅々まで手に取るように分かります。
私は労働者の中の労働者であり、労働者の友達でした。汗のにおいと小便のにおいが漂う彼らと肩を並べて、私もまた作業現場に行って、汗を流して働きました。彼らは私の兄弟だったのであり、それゆえに、ひどいにおいも気になりませんでした。真っ黒なシラミが列をなして這っている汚い毛布も、彼らと一緒に使いました。何層にも垢がこびりついた手も、ためらわずに握りしめました。垢まみれの彼らが流す汗には粘っこい情けがあり、私はその情けが面白くて好きでした。
主に川崎の鉄工所と造船所で肉体労働をしました。造船所には石炭運搬用の「バージ」と呼ばれる艀があって、ポンポン船がそれを曳航します。私は三人一組になって、午前一時までに石炭百二十トンをバージに積み込む仕事をしました。日本人が三日かけてする仕事を、韓国人は一晩でやってのけます。韓国人の手際のよさを見せてやろうと思い、無条件に一生懸命働きました。
作業現場には、労働者の血と汗を搾り取る輩がいます。労働者を直接管理する班長が往々にしてそうです。彼らは、労働者が汗水たらして稼いだお金の三割をピンはねして、私腹を肥やしていました。しかし、力のない労働者は全く抗議できませんでした。弱い者を苦しめ、強い者にへつらう人間。そんな班長に腹が立って我慢ならなかった私は、“三銃士”の友人を呼び集めて彼の元を訪ねていき、「仕事をさせたなら、させたとおりに金を払え!」と食ってかかったことがあります。一日で駄目なら、二日、三日としぶとく詰め寄りました。それでもまったく話を聞かないので、私の大きな体で足蹴りをして、班長を吹っ飛ばしてしまいました。私はもともと無口でおとなしい人間ですが、怒ると子供の頃の意地っ張りの気質が蘇り、蹴飛ばしてしまうこともよくやります。
川崎の鉄工所には硫酸タンクがありました。労働者は硫酸タンクを清掃するために、タンクの中に直接入っていって原料を排出する仕事をします。硫酸はとても有毒で、タンクの中に十五分以上入っていることはできません。そんな劣悪な環境の中でも、彼らはご飯のために命がけで働きます。ご飯というものは、命とも引き換えにできるくらいに重要なものでした。
『真の御父母様の生涯路程1』 第五節「日本東京留学時代」より引用
六 最低から最高までの生活体験-銀座通りのリヤカー引き/川崎鉄工所と造船所
私のような人は、していないことがありません。家からお金を送ってくれれば、すべて貧しく暮らす人たちに分けてあげたのです。仕事場でリヤカーを引いたこともあるのです。厳徳紋氏は、そのようなことはできないでしょう。(はい)。先生は、してみなかったことはありません。それゆえに、東京の都内はよく知っているのです。
先生が昔、皆さんのような年齢の時に、東京にいて、二十七の区域をリヤカーで配達する配達夫の仕事をしました。それをするために、運送会社を訪ねたのです。お金が必要だったからではありません。訓練が必要だったのです。そうして運送会社ならば運送会社の人々を説得しなければなりません。知らなければ、説得できません。
先生には、今も忘れられないことがあります。東京には銀座という繁華街があります。その通りは善男善女たちがとてもよく着飾って歩く、日本で一番華やかな所ですが、先生が学生服を脱ぎ捨てて、電信柱を積んだ荷車を引っ張っていきながら、「こいつら、道をあけるか、あけないか見てみよう」という考えで仕事をしたことがありました。
夏に電信柱を載せてリヤカーを引いていくとき、それが横になると、大変なことになるのです。十字路を越えていくとき横になったので、リヤカーがぐるっと回りました。そのとき、男女の別なく逃げていったことが、ありありと目に浮かびます。そうして、どうのこうのと悪口を言われたりしたことが忘れられません。先日、行ってみると、その昔の姿は一つもありません。追憶の足跡は残っていますが、現状は昔とは違うのです。それを見る時、寂しく思いました。
☆ ☆
今は、ほかの所に移っているかもしれませんが、川崎の鉄工所とか造船所に行って先生は労働もよくやりました。川崎造船所には、「バージ」という石炭を積んで通うポンポン船があります。その百二十トンになるものを三人が引き受けて、明け方一時までに終えなければなりません。他の人々が三日かかる仕事を、一時までに終えたのです。韓国人の腕前を見せなければなりません。
それを一日にいくら、と請け負うのです。仕事をする時には、会社の労働者と対決しました。「あなたたちは、これを何時間でするのか」と言うと、「私たちは六時間で終わらせる」と言うのです。そこで若い人たちを集めて、「四時間以内にしよう」と言って、必死にやるのです。「きょう一日やって死んでもよい。彼らに負けてはならない」と、激しく激励して始めるのです。「四時間でやる」と言えば、三時間ですべてやってしまいました。そして帰ってきて、三日間くらいはぐっすり寝るのです。若い時には、そのようなことが必要なのです。
会社の良い所、悪い所をすべて通過しながら、そこで証明書をもらわなければなりません。自分がもし大きいことをしようとするなら、自分自身が大衆を動かすことができるようにしなければならず、すべての階級の人たちをすぐに指導することができるようにしなければなりません。
私は、労働者の中の労働者になってみました。労働者の友達です。愛を中心とすれば兄弟です。兄弟ですが、弟の立場で犠牲になり、彼らを慰労するために夜も明かしてみたし、血の汗も流してみたし、労働してこなかった体で労働する現場に行って、一生の間労働してきた人々に負けないように、身もだえしながら働きました。その時、彼らと競争をして、勝って賞金をもらった時のその幸福感! 今も忘れられません。
休日には、川崎にある(製鉄)会社に頻繁に行きました。そこには硫酸タンクがあり、労働者がその硫酸タンクの中に入って、浄化するために原料を流し込みます。その装置は、数年間使えば使えなくなってしまいます。硫酸が染み込みません。そうすると、装置を交換するために、タンクの中に入ります。その中では十五分以上仕事をすることはできません。そのような所で、戦いながら仕事をしました。
そうかと思えば、雪の降る日や台風が吹く日には学校に行かないで、下層労務者たちの飯場に行って仕事をしました。そのような時は、本当に気分が良かったです。台風が吹き荒れていた時なので、手が真っ黒になっても、雨に当たってすぐに流れ落ちて、きれいになってしまうのです。そのような中で、汗を流して仕事をします。その気分は、本当に爽快なのです。
『日本統一運動史』より
ある休みの日なんかには、川崎に航空会社があってよく行ったもんだよ。そこへ行ったら硫酸のタンクがある。みんな労働者がそのタンクの中に入って砂のセメントでもって、浄化するために、砂のセメントの上から原料をずーっと下ろしていく。硫化装置だね。そしてそれが何年、何十年とするとみんな使えなくなっちゃう。その中に砂が入って硫酸がしみ込まないんだ。そうするとみんな切り替えなくちゃならない。そうすると、タンクの中に入って15分以上そこで働くことができない。そういうところがあって、先生はそこを訪ねていった。(1965年10月8日)
(※「航空会社」は「鋼管会社」の誤記か表記間違いの可能性があります。川崎には航空会社はありませんでした。)
原理大修練会、摂理的同時性講義途中におけるみ言 より
先生は今日、日本鋼管に行って来た。あすこへ行ってね、鉄板を作るね、熱い、あれはすばらしいな。すばらしいよりも荘厳だね。溶鉱炉でっかいね、でっかい溶鉱炉に入れて、皆溶鉱炉に何だ、溶鉱になっちゃうんだね。…(中略)…それで日本でも、東京だったらその惨めな所をズーッとたどって、川崎に行けば鋼管会社があるでしょう。今もあるでしょう。そこへ行って先生は労働したんです。(1967年6月26日)
(※1967年6月25日「日本鋼管鶴見工場視察」の教会公式記録があります。)
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