Google Mapで訪ねる主の路程(11)-解放前と光復-三角山・北岳山/定州郡郭山支署での拘留/上道洞(サムドドン)のイスラエル修道院


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第11回-解放前と光復-三角山(北漢山)・北岳山(1945年8月)
/定州郡郭山支署での拘留(1945年10月)
/イスラエル修道院 上道洞(サムドドン)教会(1945年10月~46年4月)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第11回は、京畿道警察部から釈放されてから、解放を迎える直前の時期、ソウル北部にある北岳山(プガクサン)や三角山(=北漢山[プッカンサン])で切実に祈られていたときの話、定州郡郭山支署での拘留、黒石洞(フクソクトン)にほど近い上道洞(サムドドン)にあるイスラエル修道院での活動です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

解放前での祈り-北岳山(プガクサン)(342m)


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景福宮ごしに見える北岳山
GoogleEarthで眺めた景福宮ごしに見える北岳山(プガクサン)
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※ウィキペディアの北岳山(プガクサン)を参照。

解放前での祈り-三角山=北漢山(プッカンサン)
(白雲台 836m/仁寿峰 810m/万景台 799m)

解放前のソウルと三角山こと、北漢山
解放前のソウルと、三角山こと北漢山(プッカンサン)


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GoogleEarthで眺めた三角山=北漢山
GoogleEarthで眺めた三角山=北漢山(プッカンサン)
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※現在では、北漢山(プッカンサン)と呼ばれますが、三つの尖った峰をもつその独特の山容から、昔は三角山と呼ばれることが多かったようです。ウィキペディアの北漢山を参照。

平安北道 定州郡 郭山支署での拘留(1945年10月)
郭山の市街地


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平安北道定州の隣町だった郭山
京義線の沿線にあり平安北道の定州(チョンジュ)と宣川(ソンチョン)の間にある郭山
1916年(大正5年)発行の『朝鮮平安北道新地図』より

※郭山は、平安北道定州郡にある町で文先生の故郷である定州の隣町であり、先妻だった崔先吉女史の実家がある場所でもあります。
※郭山支署での拘留については「使っているお金が異なった」嫌疑が理由とされていますが、『生涯路程』の中にも詳しいことは書かれていないのでわかりません。拘置されていた期間が一週間ですので、刑務所に入ることを意味する「収監」という言葉より、「拘置・拘留」という言葉が適切と考え、タイトルに使いました。
朝鮮総督府の警察署名簿によると、解放前、定州の町には大きな警察署がありましたが、郭山は小さな町のため警察署はなく、定州警察署所管の駐在所がありました。そのことから、解放直後に警察署ができたわけではなく保安署の支署だったと想像されます。

イスラエル修道院 上道洞(サムドドン)教会(1945年10月~46年4月)
〔現・ソウル特別市銅雀区上道1洞(サムドイルドン)494〕


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イスラエル修道院当時の建物
イスラエル修道院上道洞教会当時の建物

イスラエル修道院があった上道洞(サムドドン)〔現・ソウル特別市銅雀区上道1洞(サムドイルドン)〕は、現在の中央大学校正門近くで、文先生の自宅のあった黒石洞(フクソクトン)から、ソダル山の丘を越えて行くと約2キロ程度しか離れておらず、きわめて近い距離にあることが地図を調べてみて初めてわかりました。
どのくらい近いかは、GoogleMap内の[-]マイナスボタンをクリックし、ズームアウトして確認してみてください。


『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.95より引用)

拷問でぼろぼろになった体はなかなか回復しませんでした。長い間血便が出て、体を動かせずに難儀する私を、下宿屋のおばさんの姉妹たちが真心を込めて世話してくれました。

ついに一九四五年八月十五日、待ちに待った光復の日が来ました。三千里半島 (朝鮮半島の南北の長さを三千朝鮮里とした伝統的表現) が「万歳!」の声と太極旗の渦に覆われた感激の日でした。しかし私は、遠からず朝鮮半島に訪れるであろう驚くべき災難を予感して、とても深刻になり、喜んで万歳を叫ぶことができませんでした。独り小さな部屋に閉じこもって、祈りに熱中しました。不吉な予感どおり、祖国は日本の植民地支配から解放されましたが、すぐに三八度線で国が二つに分かれました。北朝鮮の地に、神の存在を否定する共産党が足を踏み入れたのです。

『真の御父母様の生涯路程1』 第六節「解放直前の最終準備」より引用

<解放前夜の祈祷>

ソウルを中心として高い山の頂きに行き、悲壮な涙を流して痛哭した時がありました。この大韓民国は、どこに行くのか。「ため」に生きる天理の大主宰であられる神様の懐を離れて、どこに行くのか。また、私は、解放前に北岳山(プガクサン)から始めて全部歩いた人なのです。それで、「大韓民国よ! 悲しむな。世の中は滅びても、お前は滅びないだろう」と、頭を下げて祈祷しました。私がいる限り滅びません。我が国の先祖たちの怨恨が多く、神様の怨恨が多いのです。

ソウルに来るようになれば、私が三角山(注:北漢山[プッカンサン]のこと)に行ってそのように歩き回りながら祈祷した、その時が忘れられません。皆さんには、そのような何かがありますか。世の中は分からないけれど、愛の道、愛の塔は高く積まなければならないのです。

解放前の最後の日を送りながら、国のために神様の前に懇々と身もだえしながら祈祷した事情や、世界に対して身もだえして祈祷した事情を、みな打ち明けたい心が切実であるけれども、言うに言えない胸痛い内容があるというのです。


『真の御父母様の生涯路程2』 第一節「韓国解放とキリスト教を中心とした摂理の出発」より引用

<解放直後の定州郭山支署収監(拘留)事件(1945.10、一週間ほど)>

先生は四十年間に、六回も監獄に出たり入ったりしました。監獄で五年以上暮らしたのです。悪口を言われることにおいても、天下に、歴史始まって以来、私以上に悪口を言われた人がいないのです。粟の入った俵を持ってきておいて、その粒を数えられないように、それと同じくらい悪口を言われたのです。涙を、血と汗をどんなに流したか、皆さんは知らなければならないのです。

北側に行って、監獄に入って出てくるのが三度です。三度まで監獄暮らしをしましたが、その時は、お金のために引っ掛かって入ったのです。貨幣問題のために引っ掛かったのです。それはお金に対する未練を、全部切るためなのです。一切を否定させるための神様の作戦でした。

<金百文牧師と「イエス教イスラエル修道院」>

李龍道(イヨンド)牧師を中心として三代を継いで続いた人が誰かといえば、金百文(キムペンムン)です。この人が、信仰生活において、最高の立場まで上がっていました。この集団は、洗礼ヨハネ格の集団です。

彼は、天から「一つの修道院をもて」というみ言を聞き、そして「再臨主を迎えることができる勢力を準備しろ」という啓示を受けました。

金百文氏と私は、カインとアベル、洗礼ヨハネとイエス様のような立場にあったのです。金百文という名前が、それで出てきたのです。ある人々は、先生が金百文の弟子だとか何だとか言いますが、先生が彼の弟子になるとはなんですか。その人は、キリスト教の信仰をしていましたが、キリスト論ではイエス様が神様と同位の人だといいます。根本をよく知らずにいます。けれども、その人は神霊の面では、当時の既成教会の、最高の信仰基準にあったことだけは間違いありません。

そして、当時、金百文は李承晩博士と近い立場にあったので、彼を洗礼ヨハネの立場に立ててみ旨を成すことができたのに、そのようにできませんでした。

<イスラエル修道院上道洞(サムドドン)教会>

その集団に神様のみ旨があることを知って、先生が訪ねていきました。その時が、解放直後の、一九四五年十月でした。

先生が、一番最初にこの道を出発した時は、一九四四年から一九四五年です。その時は、上道洞(サムドドン)教会で教会員たちを指導しました。

先生がその集団に行って、六ヵ月以上の期間、何をしたでしょうか。僕の暮らしをしたのです。み旨はすべて知っていますが、その相続を受けるために、誰もできない精誠を込めるのです。皆さんが想像もできない懇切な心情をもって、祈祷をしたのです。その時、先生が祈祷した床には涙が染みついて、乾く日がありませんでした。

ここでは、この世のように工作して、人をこっそり引き抜けないのです。真は真であるゆえに、真の価値を知ることができる時を待って、神様の復帰の内容を備えることができる人的資源を、その集団から発掘しなければならなかったのです。それゆえに、その集団の中で、無言の僕の暮らしをしました。
*             *
六ヵ月後に、金氏は天から啓示を受けて、彼は先生の頭に自分の手を載せて、全世界のソロモン王の栄光が先生に臨むようになることを祝福しました。

三月の復活節を迎えて、彼の食口を中心として天の役事が起きたのです。それで、自分に従うすべての食□たちの前で、先生を祝福してくれたのです。洗礼ヨハネがイエス様に引き継いだのと同じ役事が起こったのです。白い服を着て祝福をしてくれたのです。

原理観から見る時に、アベルは、カインを一つにしなければ行く道がないのです。これが一つになれば、男の世界を統一して、旧約時代、新約時代、成約時代がぴたっと連結されるのです。そうなれば、今までの縦的な歴史時代を横的に立てて、完全に蕩減復帰した勝利の基盤が生じると、そのように見るのです。

<祝福後の責任分担>

金百文が先生にそのように祝福をすると、その集団で神霊的恩恵の役事をする婦人たちや食口たちすべてが、「金先生に従わず、文先生に従え」という啓示を受けるのです。その時、先生は先生自身を前面に立てたり、弁解したりせずにじっと待ちました。その時神様は、前後をすべて備えておいたのです。

金百文は、先生に対して「ソロモン王のような使命を受けた方だ」と祝福をしましたが、彼はその真の意味が分かりませんでした。そして、先生に一言半句尋ねることもしませんでした。しかし先生は、そのことを自ら進んで言うことができませんでした。

彼は、すべてのことを悟るために、先生に質問をしなければなりませんでした。それが彼の五パーセントの責任分担でした。とにかく先生は彼から祝福を受け、それで先生は、彼がもっていたものを相続したのです。

*             *

金百文が受け入れようが受け入れまいが、先生としては忠告して清算しなくては、心情的な再出発をすることができませんでした。それで先生は、彼に十八枚の手紙を書いたのですが、彼はそれをみな破いてしまったのです。その後、先生は責任をみな果たした立場で、平壌へ出発しました。この日がなくては、平壌に行くことはできませんでした。


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