第12回-黄海道 白川(ペクチョン)から38度線を超えて(1946年5月~6月)
文先生が38度線を超えてひそかに北に入っていく場所が白川(ペクチョン)です。この場所を決して忘れることはできません。日本統治時代の白川の地図を最後尾に載せました。黄海道白川周辺が豊かな米どころであること、町のすぐ北に38度線があることがわかります。(2022年6月筆者記)
白川の韓国語読みですが、『再臨主の証明』著者の武田氏によると、韓国では「ペクチョン」としか発音しません。それに対して北朝鮮では「ぺチョン」と発音します。下記に埋め込んだ Google Map 上の表記も「ぺチョン」になっているのはこれが理由です。ちなみに分断前の日本統治時代の地図では「ペクチョン」のふりがなが振られています。(2022年7月5日筆者記)
「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第12回は、1946年5月27日、黄海道(ファンヘド)の白川(ペクチョン)に注文されていた米を買いに出かけた際、神の命令を受けて38度線を越えていかれた話です。(平壌への到着は同6月6日)
〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。
黄海道 白川(ペクチョン)の町と38度線
朝鮮戦争(韓国動乱)前に引かれた38度線と戦争後に確定した休戦ライン(DMZ)
※黄海道(ファンヘド)白川(ペクチョン)邑の位置は、戦争前は38度線の南側でした。しかし、戦後確定した休戦ラインでは北側に位置することになります。
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※プロットした場所はぴったり北緯38度の地点。現在でも白川(ペクチョン)の町の南側には田園地帯が広がり、米どころであることがわかります。[ー]ボタンを何回かクリックするとズームアウトします。上の地図と見比べて白川(ペクチョン)の位置をぜひ確認してみましょう。白川の韓国語読みですが、韓国では「ペクチョン」としか発音しません。それに対して北朝鮮では「ぺチョン」と発音します。Google Map 上の表記も「ぺチョン」になっているのはこれが理由です。
GoogleMap上で北緯38度にプロットして、それに沿って赤い線を引いてみた
※なんと、白川(ペクチョン)の町はずれを38度線が横切っていることがわかります。町を抜けるとほどなく38度線より北に行くことができます。しかし、当時の情勢から見て、道路には検問の目が光っていたであろうことは想像に難くありません。平地では目立つでしょうから、山また山を抜けて行くしか方法がなかったことでしょう。
GoogleEarthで眺めた白川(ペクチョン)の町
表示するにはGoogleMap内の[Earth]ボタンをクリック
※GoogleEarthで眺めた白川(ペクチョン)の町。この町のはずれ、山裾のあたりを38度線が横切っています。山を越えていけば38度線を越えて北に入っていくことができますが、文先生は果たしてどこからどのように通って行かれたのでしょうか。
黄海道 白川(ペクチョン)の町と一帯
黄海道白川(ペクチョン)が豊かな米どころであること、町のすぐ北に38度線があることがよくわかる。地図の上端の線がちょうど38度線。日本陸軍参謀本部・朝鮮総督府地図1932年発行 より(クリックで拡大表示)
『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.95~P.96より引用)
光復の直後、韓国の実情は言うに言えない混乱状態でした。お金があっても、米を手に入れることは簡単ではありませんでした。とうとう家に米がなくなったので、買っておいた米を取リに黄海道(ファンヘド)の白川(ペクチョン)に向かいました。その途中でのことです。
「三八度線を越えて行きなさい!北の方にいる神様に仕える人々を取り戻しなさい!」という啓示が下りました。
私は即座に、三八度線を越えて平壌に向かいました。長男が生まれて二月しか経っていない時でした。今か今かと私を待つ妻が心配でしたが、家に戻る余裕はありませんでした。神のみ言は厳しいものです。み言を受けたら、従順に即応しなければなりません。創世記から黙示録まで数十回も線を引いて読み、ごま粒のようなメモ書きで真っ黒になったぼろぼろの『聖書』一冊だけを携えて、私は三八度線を越えて行きました。
その時はもう共産党から逃れようと、北から避難民が続々と南下してきていました。特に、共産党が宗教を迫害したので、多くのキリスト教徒が宗教の自由を求めて南側に下ってきました。宗教はアヘンだと言って、民衆に宗教を持たせないようにしたのが共産党です。そのような地に、私は天の召命を受けて向かったのです。牧師であれば嫌う共産党の支配する世界に、私は自分の足で歩いて入っていきました。
避難民が増えるや、北側の警戒が物々しくなって、三八度線を超えることすら容易ではありませんでした。しかし、百二十里 (約四十八キロメートル) の道を歩いて三八度線を越え、さらに平壌に到着する時まで、なぜこの険難な道を行かなければならないかと私は一度たりとも疑いませんでした。
『真の御父母様の生涯路程2』 第一節「韓国解放とキリスト教を中心とした摂理の出発」より引用
<「三十八度線を越えろ」(1946.5.27)>
その時、私はソウルにいました。ソウルの上道洞(サムドドン)に家が今もあるでしょう。その時、鹿島組というのがあったのです。日本では大きな電気会社でした。当時、会社にも通い、教会も預かっていましたが、解放直後だから米がないのです。
先生はその時、黄海道(ファンヘド)の白川(ペクチョン)に米を買っておきました。それで、その米をトラックに積んでこようとして、行く途中、車の中で「三十八度線を越えろ!」という天の命令を受けたのです。五月二十七日に命令を受けて出発して、六月六日に平壌に到着しました。
ある朝突然、行くべき道に出発したのです。その時、聖進が四月二日に生まれて、私が五月二十七日に出発したので、一ヵ月と少しになるでしょう。
出発する時、三十八度線を越えるのが難しいので、全部天が教えてくれるのです。このような話をすれば信じないでしょうから、すべては話さないのです。三十八度線をどこから越えるか、直接案内を受けて北側に入ったのです。
* *
リュックサックを担いで、「愛する妻子を残しておいて、私は行かなければなりません。行かざるを得ません」と祈祷した時を、先生は今も忘れることができずにいます。旅人の行路を歩む、天の道を探していく青年の姿は、追われ追われる一匹の羊と同じです。
先生が北側に行ったことは、サタンの本拠地に行ったということです。それは、世界的なサタンです。共産圏に、死を覚悟して入っていったのです。
怨讐の本拠地を訪ねていったのです。韓国キリスト教を中心としたみ旨の基盤がサタン側に帰してしまったがゆえに、それを取り戻すために、サタンの巣窟である北側に行ったのです。
神様は、カインに対せなかったことが恨であり、カインを愛せなかったことが恨であり、カインの祭物を受け取れなかったことが恨でした。それゆえに、先生が聖進を捨てて、三十八度線を越えて北側に行ったのです。それは内的に子供を捨てて、三十八度線の北側にいる人々を愛したことになるです。
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