9月30日(天暦8月15日)礼拝テーマと内容

■「I姉妹40日追慕礼拝」 主礼:井口康雄 本部歴史編纂委員会部長

(説明)
同日の礼拝は、8月19日に聖和(逝去)された調布教会所属のI姉妹を追慕する礼拝として行われました。I姉妹は、真のお父様が闘病されていらっしゃる8月16日夜、調布教会で行っていた夜8時からのご健康回復を祈るための祈祷会にて、代表祈祷を始められたときに倒れられました。救急で運ばれましたが、家族に見守られながら19日未明に聖和(逝去)されました。

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主礼で説教する井口康雄 本部歴史編纂委員会部長I姉妹はこの調布教会で行われたお父様の健康回復を祈願する祈祷会の代表祈祷中に倒れられたと聞いています。まさにこの礼拝堂のこの場所だったそうですね。娘さんの話によれば、お母さんは祈祷会に行く前に、自宅で、身代わりに死ぬことがあるかもしれない、と祈っていたという話を聞きました。

I姉妹の話は、地区長のインターネット礼拝でも取り上げられ、本部教会から、文國進様にも伝えられました。報告を受けた國進様は感動され、真のお母様にも報告するので家族プロフィールと一緒にレポートを送りました。國進様は、帰国される際、「日本の食口(信徒)を大事にしなさい」と言われました。「愛しなさい」というのであれば、教会の中では普通の励ましのしかたですが、特別に「大事にしなさい」と言われたのです。

祭壇とI姉妹の遺影祈祷会に参加する前のI姉妹の祈りは、お父様を本当に愛した基準だったと言えます。I姉妹は故・久保木元会長のご夫人が伝道された方です。本当は久保木夫人がこの追慕礼拝にいらっしゃって、主礼をされるはずでしたが、同郷で昔からの顔なじみの私が代わりを務めることになりました。

統一教会草創期の頃、久保木会長が文先生から「夫婦が一緒に教会に来ないといけない」と言われたのをきっかけに、教会に来るようになった久保木夫人は、わずか7ヶ月の信仰で、日本で第一号の既成家庭として祝福を受けました。久保木夫人はお父様から直接伝道されたような立場の方です。

その久保木夫人が宮崎で開拓伝道をしていた頃、導かれたのがI姉妹です。当時は17歳の高校生でした。人生の問題を問いかけてきた久保木夫人に、悩んでいたI姉妹は、すぐみ言を聞いていくようになりました。

聖和式の祭壇ところで、今回の文先生の聖和式ですが、聖和式の式典に数多くの日本人が参加できるよう、計9機ものチャーター便が飛ばされたそうです。そして、聖和式の祭壇がとても立派でした。聖和式の祭壇ですが、どこが担当したかご存じですか? 韓国の葬儀業者が用意したものではありません。立派な聖和式の祭壇は、日本の統一教会で信徒の聖和式を行うときに、お世話になった記憶がある人もいると思うのですが、あのメモリアル聖苑が担当したのです。メモリアル聖苑は、会社をあげて取り組み、日本からユリやバラの花などたくさんの生花を空輸して、聖和式の始まる時間にあわせて、開花するように調整していったのです。
今回の祭壇、とても美しかったですよね。お母様も聖和式に入場される際、肉体的にはとても疲れられ、たいへんだったようですが、祭壇があまりにも美しいために、心からなぐさめられたそうです。

考えてみれば、メシヤの祭壇を作れたということは、歴史に残るような光栄な内容です。考えてみてください。イエス様の遺骸は死後、行方がわからなくなりましたが、墓があったとされる位置には、聖墳墓教会が建ち、その教会の管理をめぐって教派同士の対立が今なお続いているほどです。

韓国ではちょうど秋夕(チュソク)の時期です。文先生が聖和されて最初の秋夕ということで、礼典などの行事が行われているはずです。文先生が埋葬された原殿地には、後世の誰もが行きたいと思うようになることでしょう。

訓読したみ言は、1976年9月のワシントン大会直後40日路程の中でのみ言です。1972年のマジソン大会に続き、1976年の5月に開かれたヤンキー大会は、大会途中に嵐に見舞われ、舞台が壊れて、大きな成功とは言えませんでした。そこで年を隔てず、その年の9月にもっと大きなワシントン大会を開き、成功させた直後のみ言です。そこでは、霊界にいても、地上にいても働き続ける、とおっしゃるみ言は、40年前にこのようなことを語っていたのかと思えるほど、強烈な内容です。

み言の背景にあるのは、アメリカに来て3,4年がたち、神様の召命をうけた再臨の宣布であり、40日復活宣言でもあります。I姉妹が聖和して、今日の追慕礼拝が40日復活のときでもあります。この日、復活しなければ、ほかにいつがあるというのでしょうか。

これまで、霊界に行かれた信徒の中で、文先生がいつも心に抱き、涙を流され続けて来られた殉教された方がいます。共産圏で最初の殉教者となったマリア・ジブナさんと、アフリカのタンザニア宣教の途中に殉教した笹本正樹さんです。

共産主義時代のチェコスロバキアで殉教したマリア・ジブナさんのことは、文鮮明自叙伝『平和を愛する世界人として』にも書かれていますが、自叙伝によると、次のような記述があります。

『1973年のことです。チェコスロバキアで、宣教師を筆頭に信徒三十人以上が一度に検挙されるという惨い事件が起きました。マリア・ジブナは冷たい監房の中で、二十四歳という花の盛りを迎えようかという年頃で命を失い、共産国家で宣教中に落命した最初の殉教者となりました。翌年、もう一人がやはり監獄で命を失いました。』

このときのマリア・ジブナさんが獄中で文先生にあてた手紙が、後日、アメリカにいた文先生の元に届けられました。手紙の内容はこうです。(くわしくは「いつも私のとなりに神さま」の記事を参照)

お父様、私は一度もあなたにお会いしたことがありません。しかし、あなたのみ言を聞いて、『これが私の人生の行くべき道だ』このように確信しました。そして、この道を出発してまいりました。
しかし、この国は神様を認めない共産主義の国です。だから、私は明日、この地上にいることはできないかもしれません。でも私は自分が来た道を決してうらんだりしません。あなたに対して何ひとつのわだかまりもありません。だから私に対して心配しないでください。
でもお父様、一つだけ願いがあるとすれば、生きているときにあなたとお会いしてみたかった。

手紙が届けられたそのとき、回りにいたメンバーたちは手紙の内容を聞いてみんな泣きました。文先生は手紙を読まれたあと、じっと下を向いておられ、こう一言つぶやきました。

「先生は悪い男だよね。私が統一原理を発見していなければ、この原理を伝えていなければ、この姉妹はこのような目にあわなかった。だから先生は悪い男だ。」さらにもう一言、「私が霊界に行ったら、彼女を最初に呼んであげる」と言われました。

そして一方、アフリカ宣教に命をかけた笹本正樹さん。マラウイ、ザンビア、タンザニアと宣教の地を移し、タンザニアで銃弾に倒れました。(くわしくは統一教会公式サイト笹本正樹さんの聖和31周年の追慕礼拝の記事を参照)

『真の愛の花咲く天宮-真のご父母様との生活日記』(李鐘善著・成和出版社)では、文先生に笹本さんの殉教の報告が伝えられたときのようすが、次のように描写されています。

電話での会話を終えられたお父様は、み言を語られる代わりにじっと目を閉じられた。しばらくして目を開けられると、大きな声で叫ばれた。
「笹本正樹・・・笹本正樹・・・笹本正樹・・・。」
突然かかってきた電話を受けられて、笹本正樹の名前を三度繰り返して言われたお父様ではあったが、食口たちは何のことかわからず、皆、顔を見合わせているだけだった。
「先に霊界に行って待っていなさい!私が行ったときにまた会おう。」
お父様は叫ぶようにおっしゃったが、その声は大きな声というよりも号泣のように聞こえてきて、突然その場が粛然となった。
「ご苦労だったな。ご苦労だった。本当にご苦労だった、笹本正樹。」

笹本兄とは、家庭修でいっしょになった同輩とも言える間柄でした。そのときも「私は殉教する決意です」と言い、早くアフリカに帰りたい、と何度も言っていました。

その笹本兄の娘さんも大きくなり、アフリカに行きたい、アフリカの人と祝福を受けたいと希望して、2011年7月に、文先生が世界を巡回され、開催されたナイジェリア大会で、娘さんは文先生から直接激励、慰労されたことがありました。

文先生が、霊界に行って会おうとされたマリア・ジブナさん、そして笹本正樹さん。

その一方で、殉教者の第一号は、ご家庭の喜進様だったといえます。その後、ご家庭の中では、興進様、孝進様、榮進様が犠牲の道を歩まれたことは皆さんがご存じの通りです。

聖和した人たちが、霊界に行かれた文先生といちばん近くなっていきます。これから、霊界のお父様と地上界のお母様がひとつになられて、すさまじい勢いでペンテコステが起こっていくことでしょう。

祭壇に備えられた花話は、I姉妹にもどりますが、その穏やかなふるまいとは裏腹に、内に秘めた信仰は、確固としたものがありました。周りが心配するほど、少なからず家族の事情があっても、それ以上にメシアのために忠節を尽くして来られた方だと思います。ご家族のかたの心情の十字架は相当のものがあったと思います。これからは、霊界に行かれたお父様にますます忠節を捧げて行かれることでしょう。

み言訓読 「新しい世界が必ず開かれる」

私は自分の経験から、もっとも重要なことを一つ教えておきましょう。私が本当に誤解され、弁解も、全くできず、弁護も全くない時に、私は静かに神に味方し、絶対的に神に忠なる立場に立っていました。皆さんも分かるように、このようにして、神様は私と共にいらしたのです。私にも突然死ぬ日が来るのです。しかし、私は別の世界で考え続け、働き続けるので、死などはありません。だから私は、自分をのろったり、批判したり、怒ったりしても、世間の人に弁解したり、弁護したりしようとは思いません。むしろ、迫害をもっともっと受けて、伝統と条件を残していこうと思います。そして、私が死んだ後は何百万、何千万という霊界、地上界の人たちが、R・ムーンの保証人、成した行為の証しをするようにさせましょう。

私の行為は、歴史においてはただ一瞬の出来事ですけれども、永遠の立場から見た場合には、永遠に輝き続けるのです。私が霊界に帰る時、私は道を開くことができます。地上で苦労している者たちを助けることができるのです。そういう立場に立つのです。また霊界では、神の名によって苦労した者たち、そういう人たちは、霊界でも中心的な立場にいるのですが、とりわけ歴史上の苦労した聖人たちと一緒にいて、彼らをまとめ、ひきあげ、この世界の苦労の解放を早めるのです。何のことかわかりますか。これは天の戦略の一つです。

私はどんなに苦労が絶えなくても、もっと苦労しようと思います。もっと誤解され、もっと非難されようとも、それに一言も文句も言わず、全てを受け、たずさえて霊界に行こうと思います。そして引き続いて伝統を立てていきましょう。そうすれば、いずれは私たちのやっていること、私たちの真理は勝利を治めるようになるのです。私はわかっているのです。だから、私は霊界にいても、地上にいても働き続けます。

アメリカの信徒の前で語られる文鮮明先生私が生きている間に、統一をなし遂げるかどうかというのは、小さな問題です。仕事は続くのです。そして私は霊界にいようが、地上にいようが、その中心となっているのです。私の思想、計画、伝統、心情は間違いなく、統一の世界を目ざしているのです。私が死んで霊界に行ったとしても、いつでもあなた方に現われてあげましょう。同じように、同じ伝統をもって、この地上に完全な神の国を造るまで。これが私のやっている一番重要な作戦です。

私がやっているのは、十年先のためではありません。永遠を基準として作戦を立てているのです。私が地上にいようが、霊界にいようが、そのようなことが問題ではありません。あなたたちには見えないかも知れませんが、私は霊界の組織、システム、様子を熟知しています。あなたたちの目前には、もう新しい天地が開かれようとしています。私はその時間表をはっきりと知っています。新しい世界、新しい生活が必ず開かれます。

<1976年9月20日 「ワシントン大会後の我々の使命」より抜粋>

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