10月21日(日)10月度ファミリーフェスティバルを開催 [Photo]


10月21日(日)10月度ファミリーフェスティバルを開催

10月21日(日)、2012年10月度ファミリーフェスティバルを調布教会礼拝堂で行いました。
第一部では、『幸福な家庭づくりー歴史に学ぶ家庭像2-』と題し井場講師による講話がありました。
講話では、歴史を振り返りながら、その家庭像についての継続的な考察が行われました。歴史は好きな人もいれば嫌いな人もいるが、子孫のために何が残せるかを考えることはとても重要なこととしました。
相手の心がいろいろ見え出すと、多くの人はいやになり、人間不信に陥るもので、人間不信に陥った人は概して宗教に走ってきたこと、しかしながらその人間不信を克服する役割が本来の宗教であることにふれました。
キリスト教やユダヤ教の聖典である聖書の中には、兄カインが弟アベルを殺害した話が最初にあり、すでに歴史の始まりの中で、家庭の中、親族同士の殺し合いが描かれていることにふれ、現代の家庭の中では、果たして、夫も妻も誰も家庭を作ろうとしていないのではないかと警鐘を鳴らしました。
幼少期に出会った近所のおばあさんの中に、「自分は無学だが、世の中は“ありがとう”と“すみません”の二言だけですんでしまうものだ」という人がおり、今考えるとこの人の弁はたしかに本物だと実感する。学のある人ほど飾ってとりつくろうとするものだ、と述べました。
歴史で描かれた革命史観は、唯物史観と結びついていき、やがて唯物論が世界を支配している時代についてふれました。世界中が唯物論に巻き込まれた結果、芸術をやっている人を“労働しないで遊んでいるだけの人”と見なしたり、貧富の差ばかり指摘する風潮とともに、世界中が唯物論に巻き込まれている現状を憂いました。
家族の中にいながら、夫が「いつも自分が正しい」と主張し続けるような人は、家族でさえついていかないようになること、無報酬で家事をこなすお母さんはえらいが、いかに感謝ができているかが大事になるとしました。
一人の人が命をかけるとき、そこには家庭がなく、神もなければ宗教もないというような事態に陥りやすい。本来は家庭は安息の場所であり、宗教を信じる人がいかに篤い信仰で集まっていたとしても、愛が不足している実情は否めないことを強調しました。
宗教の自由をめざしたアメリカが、今では家庭がなくなりつつある現状とはいえ、それでも軍隊に若者が入り、世界のために派遣されていることにふれました。それは共産主義国家の実態は、アメリカはよくわかっているためであるとしました。
だからこそ、歴史を学ばなくてはならないし、子孫が生きる時代のことを思うと、世界の情勢に関心を持たなくてはならないと強調しました。
現代史は、共産主義とキリスト教社会の対立図式で進んできたものの、共産主義社会には、親はおらず、兄弟だけであったこと、親なる神、愛である神と言ったのはキリスト教であり、そこには父母がいると指摘しました。
しかしキリスト教には、マザーテレサのように、清い女性、貢献する女性はいるが、あくまで独身のまま母になる道を追求したものであり、家庭の問題の解決のしかたがわからないキリスト教の実情があったと指摘しました。
家庭の問題の解き方は、「命より尊いものが愛である」という認識がポイントであり、嫁を自分の娘、特にずっと会えなかった自分の娘と見なせるかどうかといった点にかかっていると解説しました。
6000年前の人類の堕落以降、弥勒菩薩のような家庭を救う方が現れ、その時に残る家庭と残らない家庭が出てくることを強調しました。
講話はさらに、次回のシリーズへ引き継がれました。

続く第二部ではまず、ピアノ演奏が披露されました。『トロイメライ/シューベルト』『月の光/ドビッシー』を続けて演奏しました。
続いてAVANTI(アバンティ)が登場、琴奏者の若い女性二人が和服で、和の名曲を演奏しました。演奏曲は『荒城の月』『幼き日の思い出』『千鳥の曲』でした。琴の調べに、観衆は音も立てず聴き入りました。

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