手記:早稲田・高田馬場聖所巡礼で聞いたこと [Photo]


(エピソード1)京畿道警察部で拷問をした係官
戸塚警察署跡地そばの「子育地蔵尊」境内には、戦前1935年頃の早稲田・高田馬場界隈を描いた手書きの地図が掲載されていることで有名ですが、その境内の場で紹介されたエピソードは、“真の愛の人”文鮮明先生を彷彿とさせる内容でした。
子育地蔵尊は、戸塚警察署跡地のすぐ手前にあります。留学時代の文先生は、戸塚警察署に何度となく留置されました。そんな場所ですから、解説の方は、戦前の特高警察が行っていた拷問のことにふれ、拷問の一形式である「飛行機乗り」の写真を見せました。
文先生は1943年に帰国した後、抗日運動主導の疑いをかけられ、1944年10月、京畿道警察部に留置され拷問を受けることになります。そのとき拷問を加えた日本人の係官が、今も九州で高齢になりながらも存命だったことがわかり、訪ねて当時の話をさりげなく聞きに行ったときの話が紹介されました。そのときは本人であることの確証がなかったものの、同じ時期に拷問を受けたことがある学友の方が、元係官の写真を見るや、「彼だ!歳を取ったな。」との一言で、間違いなく本人であることが判明したそうです。
高齢となった元係官の写真が、地域の広報誌の表紙に載ったことがあり、その広報誌が文先生のもとに届けられた際、文先生は拷問を加えた元係官の顔がすぐわかったはずなのにもかかわらず、にっこり笑ってサインをしてくださったそうです。京畿道警察部での拷問は、全身にまっ黒い血のあざができるほどの激しいものでありながら、文先生の心の中には、憎しみや恨みなどみじんもなく、赦して愛してくださる方であると、このときほど実感できたことはない、ということでした。

『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.93)の記述より
「戦争は終わりの時が近づき、焦りの色を濃くした日本の警察の拷問は、とても言葉で言い表せないほど残酷でした。彼らは鋲(びょう)を打った軍靴(ぐんか)で私の体を容赦なく踏みつけ、私が死んだようにぐったりすると、天井につるして揺らしました。精肉店の肉塊と化した私の体は、彼らが押す棒に任せてあちこち揺れ動き、口からは鮮血がほとばしってコンクリートの床を濡らしました。何度も気を失い、そのたびにバケツ一杯の冷水をかけられ、意識が戻ればまた拷問です。鼻をつまんで、洋銀製のやかんを口の中に突っ込み、大量の水を無理やり飲ませる拷問もありました。床に倒れた後、カエルのように膨れ上がったおなかを軍靴で踏みつけます。食道を通って上がってきた水を吐き出すと、目の前が真っ暗になって何も見えませんでした。そんな拷問を受けた日は、食道が燃えるように痛み、水っぽい汁でさえ一口も喉を通らず、剥(む)き出しの床に力なく俯せ(うつぶせ)になって、ぴくりとも動けませんでした。」


(エピソード2)留学時代の写真3枚目を発見
今回の聖所巡礼では、聖所巡礼の会の井口氏によって、最近になって証拠となる資料や写真などが新たに発見されたことが報告されました。
新たに発見された資料として、特高警察関係資料の中に「抗日運動を主導していた早大生 江本 某…」の記述があったことが確認されました。「早大生 江本 某」とは、文鮮明先生の日本統治時代の名前「江本龍明」のことに間違いありません。ちなみにこのことは『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝-増補版』で紹介されています。“増補版”には日本留学時代のエピソードが追加収録されています。くわしくはこちらまで。
そして、新たに発見された写真とは、早稲田高等工学校時代に学友と共に農業実習をしている写真です。これまで留学時代の写真は、大隈講堂前で撮影した卒業時の集合写真と、高田早苗総長の像の前で学友と一緒に撮影した写真の2枚しかなかったわけですが、今回、新たに3枚目の写真が見つかったことになります。その写真が広く認められれば、私たちも今後、出版物などで目にする機会がきっと多くなることでしょう。

『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.80)の記述より
「早稲田大学の西側に警察署がありました。私の活動に感づいた警察は、絶えず目を光らせて私を監視しました。夏休みに故郷に帰ろうとしても、先に警察が嗅ぎつけて、埠頭(ふとう)や駅に私服警官を送って見張るほどでした。そのため、警察に捕まって、取り調べを受けたり、殴られたり、留置場に拘禁されたりしたことも、数え切れないほどありました。追いかけてきた警察と四ッ谷の橋で、欄干(らんかん)の柱を抜いて戦ったこともあります。この当時、私はぐつぐつと煮えたぎる火の玉のようでした。」

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