Google Mapで訪ねる主の路程(4)-黒石洞(フクソクトン)と京城商工実務学校


[総目次へ]<< 第3回へ                    第5回へ >>

第4回-黒石洞(フクソクトン)と京城商工実務学校
18歳(1938年4月)~21歳(1941年3月)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えていかれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第4回は、文先生が京城商工実務学校に通われていた時代、学校のすぐ近くにある黒石洞(フクソクトン)の下宿先です。
同学校時代に通われていたという明水台(ミョンスデ)イエス教会の「明水台」の地名は、黒石洞の別称です。戦前、日本人・木下榮がこの地に郊外住宅街を開発し京城商工実務学校をはじめとする学校誘致を行いました。郊外住宅街は「明水台住宅地」と呼ばれ、それが地名の由来になったようです。
記事更新にあたって、文先生が住んでいた時期である1941年発行の「京城府」地図を追加しました。地図を見ると、黒石洞のようすや、漢江の広い河原、対岸にある西氷庫の町のようすがかいま見られます。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に研究・推論したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

黒石洞(フクソクトン)下宿先の家の跡地と、左に見える京城商工実務学校跡地(現・中央大学校付属小学校)(ソウル特別市銅雀区黒石洞)


大きな地図で見る
▲Google Mapを見ると、黒石洞の文鮮明先生が下宿されていた家のあった一帯は、残念
ながら再開発が進み、高層マンションが建ち並ぶニュータウン地区に変わってしまった。
1941年発行の京城府地図から判断した限りでは、当時あった京城商工実務学校の跡地
は現在、中央大学校付属小学校になっている。右下に見える小高い丘陵がソダル山。

文先生が黒石洞に住んでいた時期の「京城府」地図 new!

1941年「京城府」地図より黒石洞付近(クリックで拡大表示)
▲1941年 陸軍参謀本部陸地測量部発行「京城 京畿道京城府」地図。
現在の黒石洞付近をトリミングしたところ。(クリックで拡大表示)

黒石洞の戦前の町名は黒石町。低地は田んぼばかりで、山あいに沿って建っている家もまばらです。京城商工実務学校までは徒歩で7分程度の距離にあります。
地図を見るとよくわかりますが、漢江大橋のたもとまで、路面電車が走っていたのがわかります。自叙伝の中にも、文先生は電車に乗らないで都心まで歩いたという話しが登場しますが、たしかに黒石洞に住む人たちは路面電車に乗って、都心にでかけていたであろうことが想像できます。
当時の黒石洞には、今のソウルとは違い、幹線道路も、高速道路もありませんから、漢江べりに出るのも容易な感じです。

漢江の広い河原と黒石洞の対岸にある西氷庫(ソビンゴ)の町

1941年「京城府」地図より漢江の広い河原と対岸にある西氷庫(クリックで拡大表示)
▲同地図より、漢江をはさんで黒石洞の対岸にある龍山(ヨンサン)
の町や西氷庫(ソビンゴ)の町を見たところ(クリックで拡大表示)

当時の漢江は大きく蛇行しており、ものすごく広い河原が広がっていることが最初に目を引きます。西氷庫(ソビンゴ)から河原の中まで砂利を運搬する鉄道線路が引かれているほどです。「生涯路程」では、明水台(ミョンスデ)教会と西氷庫教会が合同で礼拝をおこなった場所は、広い漢江の河原(砂浜)であったことを文先生ご自身が語っています。
なお、当時、人も車も通ることのできる橋は、漢江大橋だけでした。路面電車はその漢江大橋の上を走っていました。地図上には漢江の広い河川敷のまん中に電停が描かれています。

京城商工実務学校卒業写真 京城商工実務学校校舎
▲京城商工実務学校の卒業写真/京城商工実務学校の校舎

黒石洞の下宿にて学校の友人と  近年まで残っていた黒石洞の家
▲友人とともに黒石洞の下宿にて自炊しているようす/近年まで残っていた黒石洞の家

漢江大橋 在学中に通っていた明水台教会
▲漢江大橋を南岸から北の龍山方向に臨む/文先生が通われていた明水台教会

『朝鮮諸学校一覧』での京城商工実務学校の概要

『朝鮮諸学校一覧』での京城商工実務学校
▲1939年(昭和14年)発行『朝鮮諸学校一覧』の統計。京城商工実務学
校の概要がわかる。 31人の教員全員が日本人教師。学生数の内訳は「鮮(韓国
人)」770人、「内(日本人)」47人となっている。この統計では、学校創
立年が1939年2月となっているが、前年発行の『実務学校職員録』では、京
城商工実務学校の前身である「京城商工学院」の学校名が記載されている。

Bing地図で見た黒石洞の街並み(クリックするとBing地図へ)
▲Bing地図では数年前の航空写真が使われているため、再開発前の黒石洞の街並みを見ることができる
(※この写真はキャプチャ画像です。クリックするとBing地図を開きます。)

今のソダル山から見たソウルの風景 ソダル山一帯は自然公園になっている
▲今のソダル山から見たソウルの風景/ソダル山一帯は自然公園になっている

GoogleEarthで黒石洞から見たソダル山
▲GoogleEarthで黒石洞から見たソダル山。ソダル山は別名を
ダルマ山とも呼ばれる。名前の由来の通り、山の上には達磨寺がある


大きな地図で見る
▲地形図で見ると、ソダル山の山容や、黒石洞/明水台の街が谷あいにあることがよくわかる


『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.68~P.69/P.73~P.76より引用)

定州普通学校を終えたあと、住居をソウルに移した私は、黒石洞(フクソクトン)(現在のソウル特別市銅雀区内)で自炊しながら京城商工実務学校に通いました。ソウルの冬はとても寒かったです。零下二十度まで気温が下がることも珍しくありませんでした。そのたびに漢江の水が凍ったりもしました。自炊の家(下宿)は井戸が深くて十尋(約一八・二メートル。一尋は六尺で約一・八二メートル)以上もありました。紐がよく切れるので鎖をつないで使いましたが、井戸水を汲み上げる時に釣瓶縄に手がペタペタくっつき、口で息をハーハー吹きかけて水を汲んだものです。

寒さ対策に、持ち前の腕を生かして編み物をよくしました。セーターもたくさん着て、厚手の靴下や帽子、手袋もすべて自分で編んで作りました。私が編んだ帽子はとてもかわいくできて、その帽子を被って外に出れば、みんなが私を女性と思うほどでした。

しかし、真冬でも自分の部屋に火を入れたことはありません。火を入れる余裕はなかったし、極寒の中、家もなく道端で凍りついた体を温める人に比べれば、貧しくても屋根の下で横になって眠ろうとする私の立場が贅沢だと考えたからです。ある日は、あまりにも寒くて、裸電球を火鉢のように布団に入れたまま、その布団をすっぽり被って寝て、熱い電球で火傷して皮膚が剥がれてしまいました。今でもソウルと聞けば、その時の寒さがまず頭に浮かびます。

☆             ☆

故郷で山という山は全部足を運んで登ったように、ソウルも隅々まで行かなかった所がありません。その頃、ソウル市内を電車が走っていました。電車賃は五銭でしたが、それさえもったいなくて、いつも歩いて行きました。蒸し暑い夏の日は汗をたらたら流して歩き、極寒の冷たい冬は肉を抉るような風をくぐり抜けるようにして歩きました。もともと足が速い私は、黒石洞から漢江を渡って鍾路(チョンノ)の和信(ファシン)百貨店まで四十五分あれば着きました。普通の人には一時間半ほどの道のりですから、どれだけ早足だったか想像がつくでしょう。浮いた電車賃は貯めておいて、私以上にお金に困った人に分け与えました。

☆             ☆

ソウルにいた時も熱心に教会に通いました。最初は黒石洞五旬節教会に通い、漢江の向こう側 (北側)にあった西氷庫(ソビンゴ)五旬節教会にも通いました。その後、内資洞(ネジャドン)(現在のソウル特別市鍾路区内)のイエス教会と黒石洞にあった明水台(ミョンスデ)イエス教会に通いました。西氷庫洞(ソビンゴドン)(現在のソウル特別市龍山区内)に行こうとして漢江の橋を渡ると、寒い冬の日は「パーン!ジジジジー!」と氷が割れる音がしたものです。

☆             ☆

明水台(ミョンスデ)の裏側に瑞達(ソダル)山があります。瑞達山の岩に登って、しばしば夜を徹して祈りました。寒くても暑くても、一日も休まず祈りに熱中しました。一度祈りに入れば涙と鼻水が入り混じるくらい泣き、神様から受けたみ言を胸に抱いて、何時間も祈りだけに集中しました。神様のみ言はまるで暗号のようで、それを解こうとすればより一層祈りに没頭しなければなりません。今考えると、その時すでに、神様は秘密の門を開ける鍵を親切に与えてくださったのに、私の祈りの不足ゆえにその門を開けることができませんでした。そういう訳で、ご飯を食べても食べた気がせず、目を閉じても眠れませんでした。

一緒に下宿していた友人たちは、私が山に登って夜通し祈っていることはよく知らないようでした。それでも、他の人とは違う何かが感じられたのか、私に一目置いていました。しかし私は、平素はおどけた言動をして仲良く過ごしたものです。私は誰とでも気持ちがすっと通じます。お婆さんが来ればお婆さんと友達になり、子供たちが来れば子供たちとふざけたりして遊びます。相手が誰であっても、愛する心で接すればすべて通じるのです。


『真の御父母様の生涯路程1』  第四節「ソウル黒石洞中学時代」より引用

<孤独な時に訪れた温情の手>

一度、二つの教会が漢江のほとりで合同礼拝を捧げたことがあります。その砂浜は今はなくなりましたが、西氷庫(ソビンゴ)前でした。昼になると、みな昼食を食べるのに、その中で一人座っていて堪えられるでしょうか。それで一人さっと後ろに抜け出て、石が積み重ねてある所に行って、考える時間をもちました。昼食を食べずに、砂利を積んでおいた石の小山の後ろにいたのですが、その時に、宋夫人がアイスクリーム二つと、パン二つを持ってきてくれたのです。そのことが、いまだに忘れられません。一つが一銭したのです。それをすべて合わせても、四銭ですが、そのパンとアイスクリームを持ってきてくれたことが、永遠に忘れられないというのです。ですから、その時その場が、どんなに深刻だったかというのです。

*             *

<明水台イエス教会と西氷庫教会>

昔は西氷庫前に砂浜がありました。今は、そこをみな掘ってしまい、砂浜がないので残念です。皆さんはそうでありませんか。ビルディングを建てることはいいけれど、砂浜のなくなったことが、この上なく残念です。思い出の多い所なのにです。

皆さん、明水台(黒石洞)に行けば明水台教会がありますが、その教会は、先生と何人かの同志たちで建てた教会です。一度その砂浜で、西氷庫教会と明水台教会が合同礼拝をしましたが、その時のことが思い出されます。

そこは、風が吹けば、ほこりが舞ってとてもやりにくいのです。ですから日曜日になれば、砂利石の山の間の砂場に行って、全員が集まり、座って礼拝を行いました。

<幼年日曜学校の教師>

その時、学校に通いながら、日曜学校の学生たちを指導したのです。黒石洞教会でもそのようにし、西氷庫教会でもそうしました。その時は漢江が凍りました。夜は、寒いから川が凍って、氷の割れる音が、「パン、ジジジジジ」とするのです。そうすると、一人でいると怖いのです。そのような漢江を渡って通いながら、西氷庫にいる日曜学校の学生たちを教えました。

*             *

<懐かしい黒石洞の昔の面影>

私は、ソウルの黒石洞にいましたが、昔の考えをもって何度か行ってみました。ところで、ソウルはどんなに変わったことでしょうか。黒石洞に来れば自然の風景もあって、追憶の中に印象づけられています。しかし行ってみて落胆したのです。やあ、発展するのもいいけれど、こうであっていいのかと思ったのです。昔をたどることのできる、基礎になることのできるものが、一つもありません。

高い山に上がって見てみると、想像もできませんでした。どれくらい掘り返して家々を建てたのか。昔はその山の谷間が深かったのに、どのようにみな埋めて家を建てたのか、寂しさを感じました。それでも、その中で昔あった家を探してみました。黙って、そしてあれこれ見ていると思い出したのです。

昔住んだ黒石洞の家を、当時の姿そのままに、どこかに模型でも作って置けば、どんなにうれしいでしょうか。それゆえに、忘れられない、意味ある物は追憶として残そうとするのが、人間の本性の要求だということを知ることができます。なぜそうなのかといえば、情緒的な因縁をもって生きる人間においては、そのような追憶の資料によって、再度刺激を感じながら、より一層発展するためです。それゆえに博物館が必要なのです。それと同じように、皆さんもそのようなものを、皆さんの家門ならば家門に残すべきだというのです。

<< 第3回へ                         第5回へ >>

連載:Google Mapで訪ねる主の路程 連載記事一覧へ

This entry was posted in GoogleMapで訪ねる主の路程 and tagged , , , , , , , . Bookmark the permalink.

Comments are closed.