第19回-釜山・厳徳紋氏との再会/草梁(チョリャン)駅前の下級労務者宿所/釜山港第四埠頭(1951年1月~4月)
「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えて行かれた文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第19回は、釜山・厳徳紋氏との再会/草梁(チョリャン)駅前の下級労務者宿所/釜山港第四埠頭(1951年1月~4月)です。
〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ推測したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。
草梁(チョリャン)駅跡/釜山港第四埠頭(釜山広域市東区草梁洞)
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▲戦前戦後の釜山の地図から、京釜鉄道の草梁(チョリャン)駅があったと推定される場所。
当時の京釜鉄道本線は、この南北に伸びる幹線道路に沿って走っていた。後の時代になって、
ほぼ同じ場所に釜山地下鉄1号線の草梁駅が設けられている。一方、東の位置に見えるのが
釜山港第四埠頭。すぐ下に見えるのが第三埠頭。埋め立て事業が進められているのがわかる。
(左)現在、草梁駅の跡地は三角地の広場と広い幹線道路となっている。
幹線道路の下には釜山地下鉄1号線が走る/(右)京釜鉄道が開通して
間もない1908年(明治41年)当時の草梁駅の駅舎-右側の建物
草梁の下級労務者宿所に寝泊まりしている頃から
文鮮明先生が書き始められた原理原本の直筆原稿
京釜鉄道の草梁(チョリャン)駅があった場所は、現在、ジョンバル将軍の銅像が立つ三角地の広場付近です。文鮮明先生が寝泊まりされた下級労務者宿所は、当時の草梁駅の西側近辺にあったと推測されますが、その場所を知るすべは今のところありません。草梁駅は1908年の京釜鉄道開通時の釜山側の終点で、その後、1910年に釜山停車場まで線路が伸びることとなります。
それから解放後の1969年、京釜鉄道本線は海側の埋め立て地を走ることとなり、草梁駅は北側に移動してきた釜山駅に統合・廃止されます。当時の京釜鉄道本線の鉄道敷地は、広い幹線道路やオフィスビル街になっています。
▲(左)1910年頃の釜山・草梁駅(クリックで拡大表示)
/(右)1940年頃の釜山・草梁駅(クリックで拡大表示)
出所:1940年 海軍省水路部「釜山港付近」
▲(左)1946年頃の釜山・草梁駅(クリックで拡大表示)
出所:Pusan 1946 – Korea City Plans – U.S. Army Map Service
/(右)1958年頃の釜山・草梁(クリックで拡大表示)
出所:1958年 海上保安庁「釜山港朝鮮南岸」海図
戦前は釜山港は第一・第二埠頭だけでしたが、戦時中に埋め立てが進み、解放直後の1946年には第三・第四埠頭ができていたようすがよくわかります。南から北にむかって順番に第一、第二、第三、第四埠頭です。
鉄道路線は山側に残った本線と、海側に新しく引かれた貨物線が見えます。韓国動乱(朝鮮戦争)の時には、第三・第四埠頭が米軍の補給物資などフル稼働で荷揚げに使われていたことが史料から伝えられています。そのような時に文鮮明先生は草梁を根城に埠頭で労働されていたのです。
やがて、1969年以降、山側の鉄道路線は撤去され、幹線道路となり、海側に移動します。同時に草梁駅も姿を消すことになります。
文先生が一緒にすごした厳徳紋氏住まいの推定地(釜山広域市西区富民洞)
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▲「統一教会史 上巻」によると、文先生が一緒にすごした厳徳紋氏の住まいがあった場所は、当時
の慶尚南道道庁前であり、釜山広域市西区富民洞(プミンドン)とされている。慶尚南道道庁跡地は
現在、東亜大学の富民キャンパスになっている。厳密な場所は不明なのでマーキングはおおよその位
置。なお、文先生たちはその後南富民洞に引っ越しするなど、この時期は居場所を転々とされている。
(左)戦前の慶尚南道道庁/(右)第一埠頭にほど近い山から釜山市街を臨む。
1953年前後に米軍が撮影。出所:Korean War Project
▲慶尚南道道庁があった富民洞(プミンドン)と釜山の街(クリックで拡大表示)
出所:1940年海軍省水路部「釜山港付近」
『平和を愛する世界人として-文鮮明自叙伝』(P.122~P.125より引用)
臨津江を渡ってソウル、原州、慶州を経て釜山に到着した日が一九五一年一月二十七日でした。釜山の地は避難民でごった返していました。朝鮮八道 (全土) の人が全部集まったかと思えるほどで、人が生活できる所は軒先までぎっしりと詰まっていて、お尻一つ入り込める隙間も残っていませんでした。仕方なく、夜は林の中に入って木の上で眠り、昼になるとご飯を求めて市内に下りていきました。
監獄で剃った頭はむくんでいました。内側を布団綿で継ぎ当てしたパジチョゴリ(男性用の韓服)はぼろぼろになり、染み付いた脂垢のせいで、雨に濡れると服の上を雨粒がころころと転がりました。靴も上の部分はくっついているだけ、下底はほとんど残っておらず、裸足で歩くのと同じでした。どこから見てもどん底の中のどん底、乞食の中の乞食です。働き口も所持金もなく、食べ物を得るには物乞いするしかないという惨な有様でした。
しかし、乞食をして回るときも、私はいつも堂々としていました。目ざといので、ぱっと見てご飯をくれそうにないと思うと、「われわれのように困った人を助けてこそ後で福を受けるのだ!」と言って、むしろ強気の態度でご飯をもらいました。そうやって手に入れたご飯を、日当たりの良い所に座って、数十人でぐるりと囲んで食べました。無一物で乞食の境遇にありながらも、お互い不思議と気持ちが通じ合うところがありました。
「おお、これは一体何年ぶりか?」
誰かが弾んだ声で呼ぶので振り返ってみると、日本留学時代に私の歌声に魅了されて友人となった厳徳紋でした。今は、世宗文化会館やロッテホテルなどを設計して、わが国有数の建築家になった人です。彼はみすぼらしい姿の私をぱっと抱きかかえると、有無を言わせず自分の家に連れていきました。
「行こう。さあ、わが家に行こう」
結婚していた彼は、一間の部屋に住んでいました。狭い部屋の真ん中に布団包みを吊して部屋を二つに分けると、彼は妻と幼い二人の子供を向こう側に行かせ、「さあ、あれからどうやって生きてきたのか話してくれ。どこでどうしているのかずっと気がかりだった。前は普通の親しい友人のようにしていたが、いつも君のことを友人以上の存在と思ってきた。心の中で一目も二目も置いていたことは知っていただろう?」と言うのでした。
私はその時まで、友人に自分の正直な心の内を明かしたことはありません。留学していた時、『聖書』を読んでいても友人が来ればすぐに片付けてしまうほど、自分の内面を見せませんでした。厳徳紋の家で初めて洗いざらい話したのです。
話は一夜で終わりませんでした。神と出会って新しく悟ったこと、三八度線を越えて平壌に行き布教活動を始めたこと、興南監獄を生き延びたこと。全部話すのに三日三晩かかりました。話をすっかり聞き終えると、厳徳紋はその場ですっくと立ち上がって、私に丁寧なお辞儀をしました。
「おい、それはどういうことだ?」
その手をつかんで引っ張りましたが、彼は頑として動きませんでした。
「これからは、あなたが私の人生の師です。このお辞儀は私が師に捧げる挨拶だから受け取ってください」
それから後、厳徳紋は私の生涯の友であり、同時に弟子として、私をそばから見守ってくれました。
厳徳紋の一間の部屋を出てから、釜山の第四埠頭で夜間の重労働に就きました。仕事が済んで労賃を受け取ると、草梁(チョリャン)駅で小豆粥を買って食べました。熱い小豆粥は、冷めないように、器はどれもこれもぼろ布でしっかりと包んであります。私は小豆粥を一つ買って食べながら、その器を一時間も抱きかかえていました。そうすると、埠頭で夜通し働いてかちかちに凍りついた体がとろりと解けたのです。
その頃、草梁の労務者用の宿所に入ることができました。部屋が呆れるほど小さくて、対角線で横になっても壁に足が当たります。その後、知り合いの家に泊めてもらい、その部屋で鉛筆を削り、心を尽くして『原理原本』の草稿を書きました。極貧の生活だろうと何の問題もありませんでした。たとえゴミの山の中で暮らしたとしても、意思さえあればできないことはないのです。
『真の御父母様の生涯路程2』
第五節「釜山避難時代」より引用
<埠頭労働と草野潜伏>
釜山に下ってくると、そこは黒山の人だかりになっていました。穴のある所はすべて人が入って占められており、どこでも住めるようなところは、軒先まですべて満員なのです。ですからどうしますか。夜は夜の仕事に出て、昼寝るのです。そこで足をどんどんと踏みならしながら、夜に震えた思い出が今も遠くかすかに思い出されます。そのような時でも先生は、「天の父よ心配しないでください。嘆息されながら歩んで行かれた父のみ跡を喜びと希望で、つなぐことができる私になります」と、祈りました。
夜には出ていってお金を稼ぎ、昼は十時から二時まで寝るのです。その時は日なたの所に行って、雉みたいに場所をとって入って行き、寝ればいいのです。寝て起きて、服をさっと着た時には、金サッカ(注:朝鮮王朝末期の放浪詩人)の歌が思い出されるのです。
先生は自然的な人です。そのような心をもちながら、庭に行っても庭で寝て、岩に座ってもそこで寝るというような生活を、本当にたくさんしたのです。なぜそうなのでしょうか。私が岩に座っていて、去ろうとすれば、岩が悲しむのが分かるのです。そこで寝ればそれが岩ではないのです。自分の家よりも貴いのです。
昼は山に登って林の中に寝床を定めて寝たり、一人の時間をもったりもしました。先生は、そのようなことを好んでしました。夜、再び仕事場に行けば、先生は旋風的な姿になりました。すべての人々が、私の周囲に集まりました。先生が興味深い話をしてあげれば、彼らは食べ物を持ってきて、分けて食べるのです。
それゆえに、皆さんが雪の降る日、あるいはみぞれの降る日に、道端にいる労働者の、その物悲しく哀れな身の上を見るようになれば、その人が先生であることを連想しなければならないのです。「私たちのお父様が、あんな仕事をされた!」というようにです。先生が軒下で夜を明かしたことが、どんなに多かったか知らなければなりません。
<あずき粥売りのおばさん>
私が避難してきて、ここ草梁(チョリャン)の釜山鎮四埠頭に仕事をしに通ったこと、それからあずき粥を売るおぱさんたち、それから蒸し餅を売るおばさんたちのことが思い出されます。
仕事をして、お金をもらってくるのですが、どこに行っても寒いのです。ですから、あずき粥を売るおばさんのところに行くのです。草梁駅に行くと、あずき粥の商売をするおばさんたちがたくさんいます。ぽろ布団でくるんで、おけが冷めないようにして来て売りますが、そのあずき粥のおけを抱き抱えるのです。そうしたからと言って、そのおばさんが何か言うのではありません。
三十分も話せば、「あずき粥を食べなさい」と言うのです。そして、あずき粥売りのおばさんのところに三日か一週間も行けば、あずき粥を売ったお金を、私に任せるようになるのです。
最近も、それを食べたい時があるのです。その時、どんなにそれがおいしかったことか、その当時は誰もが飢えていたから、世の中で一番おいしい物でした。その垢だらけのおばさん、ただ粥を売るために回生懸命なそのおばさんの顔と姿が懐かしく、その手でよそってくれたお粥がどんなにおいしかったことか、今も忘れられません。そのころ、避難していたころは、防空壕に行って寝たりしました。避難時代に家がありますか。あの山の尾根に登っていき、オーバーを掛けて寝たのが、きのうのことのようです。その時、そのおばさんの家は、小さな家でした。夫と子供たちと住んでいましたが、子供たちを見れば、かわいそうで、わびしくて、そのような環境でしたが、そこに足でも一つ入れて住んだならば、それがどれほど誇りですか。そう、粥を移し換えて釜の底に残ったお焦げでももらっておいしく食べたことが、どんなに思い出されることでしょうか。そのようなこともあったのです。
<生活体験と原理原本執筆開始(一九五一・五・一一)>
数人の食口を中心として、死線を越え韓国の地に一九五一年に下ってきて、原理原本を作ったのです。
草梁(チョリャン)に労務者収容所があって、そこの小さな部屋で私が原理原本を書いたのが思い出されるのです。これくらいの部屋で、まっすぐに横になることができません。それゆえ、「く」の字になって横にならなければならないのですが、「く」の字で横になっても壁に足がつきます。そのような部屋で過ごしたのがつい先日のことのようなのに、歳月のたつのは早いものです。
* *
私は、この聖なる人生行路、男児一言(男児一言重千金:男子の一言は千金のごとし)の行路において、人が行くことができなかったそのような曲折の路程を行くことができる、一つの記録を残すという、人間哲学をもっているのです。人生哲学ではありません。人間哲学だから、生活と、すべてのごみの穴も全部掘るのです。生活分野の特別なそのような面で、曲折のすべてのことを解決していく、それはどんなにすてきなことでしょうか。
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